※書籍2巻読了後にご覧ください。竜侯一家とニアナの後日談。
湖沼の点在する平野を、石畳の街道がまっすぐに北を指して走る。フェーレ川にかかる橋を渡ると、行く手に海が見えてきた。北部の冬には珍しい晴天のおかげで、遠来の旅人を歓迎するように紺碧にきらめいている。
「もうすぐだ」
ほら、とネイシスが示す先に、町の建物が集まっている。ニアナは目蔭を差し、ほう、と息をついた。やれやれ遠かった、だとか、あれがナナイスね、だとか、そんな感想を言うつもりだったのに、唇が勝手に動いて言葉を紡いだ。
「……海」
随分久しぶりだ。生まれ育った村とは遠く離れているのに、海だというだけで、帰ってきたような感慨を抱く。
横でネイシスが黙ってこちらを見ているのに気付き、ニアナはごまかすように膝を屈伸してわざとらしい声を上げた。
「あー、本っ当、遠かったわー! 疲れちゃった、早く休みたーい」
「もう少しだから頑張ってくれ」
「はいはい、歩きますわよ……っと。貧乏人はつらいわねー」
ぼやいたニアナに、ネイシスは複雑な顔をする。ニアナは無視して先へ進んだ。
そもそも、歩くと言ったのは彼女自身だ。
ネイシスが出先からナナイスへの帰途、パルテノスに寄って一緒に来るかと問うた時、彼は明らかに、天竜の翼を借りるつもりだった。しかしニアナがそれを断ったのだ。
(馬鹿じゃないの、いくらなんでもあなたのお母様の背中に乗っけてもらうなんて、そこまであたし図太くないわよ!)
あんな少女の姿を見た後で、便利な乗り物扱いするなど良識が許さない。他にも理由はあったのだが、ニアナはそう言って突っぱね、徒歩の旅を選んだ。
「帝国時代は乗合馬車もあったらしいんだが」
並んで歩きながらネイシスが言う。ニアナは肩を竦めた。
「共和国の中だけでも、復活させられないの? まぁ、どっちにしろ今回には間に合わないけど」
「検討はしているらしいんだが、色々と条件が難しい……」
言葉の途中で、あ、とネイシスが困ったような声を漏らし、空を仰ぐ。同時にニアナも、つながりを通じて光が揺れるのを感じ、ぎくりと仰向いた。
〈ニ ア ナ さ――――ん!〉
きゃあ、とばかりの歓声が頭上から降って来る。雲間の青空にキラリと星が光ったかと見るや、瞬く間に巨大な白い塊が迫って、
(潰される!!)
「ひッ」
反射的にニアナはその場から飛びのいた。直後、竜の巨体が掻き消え、白い服の少女が地面に、
「あいたっ」
べしゃ。勢い余って倒れこんだ。
降って来た時の速度と体積からすれば、実に軽くて他愛無い転び方である。
驚愕と混乱でニアナが硬直している間に、レーナはぱっと身を起こし、鼻と額に砂をつけたまま、満面の笑みで両腕を広げてニアナに抱きついた。
「いらっしゃい! やっと来てくれたのね! 嬉しい!!」
「えええぇぇっと、あの、その」
この世の幸福が一度に全部集まってきたかのような喜びように、ニアナは完全にあてられてしまって眩暈をおぼえる。抱擁を返すどころか、立っているのもやっとだ。
玩具を貰った犬が大喜びで、咥えて振り回したり転がしたりしてはしゃいでいる姿が脳裏をよぎる。……むろん、己はその玩具の身なわけだが。
レーナの方はニアナの困惑にはお構いなく、抱擁を解くと両手で彼女の手を取って小さくぴょんぴょん跳ねた。
「迎えに行くって言ったのだけど、ネイシスが要らないって言うから、本当に待ち遠しかったのよ。もしかしてニアナさんは、高いところが怖いの?」
「そ、そういうわけじゃないんですけど。あの……ただ、……自分の足で、歩いて来たかったんです」
ニアナはつっかえながらも、なんとかそう答えた。
幼い頃の憧れを、身の程知らずだったと悟って一度は諦めたのに、いまさら平気な顔でこれ幸いと竜の背に乗せてもらうのは、どうにもすっきりしない。だからせめて初めて訪れるこの町まで、自分の足で歩きたかったのだ。自分の道を自分で決めた、その事実を確かなものにするために。
――そこまで言葉にするのは恥ずかしかったし、独りよがりに思えたので、ニアナは黙ってレーナを見つめる。金に近い琥珀の目が、束の間じっとこちらの瞳を覗きこんで、
「そう。それじゃあ、あとちょっと、私も一緒に歩くわね」
ふわりと優しく細められた。
すべてを言葉にせずとも理解してもらえることの居心地よさに、ニアナは子供に返ったような甘酸っぱさを感じながら歩みを再開する。レーナも一緒に、軽やかな足取りで歩きだした。すっかり無視されているネイシスは、いつもの事とて気にした様子もなく、荷物を肩にかけ直して後に続く。
しばらく三人で歩いて町の近くまで来ると、街道の端に見覚えのある人物が待っていた。ニアナが軽い緊張をおぼえて背筋を伸ばすと同時に、彼の方からゆっくり歩み寄って来た。
「ようこそナナイスへ、ニアナさん。遠い所、お疲れ様でした」
竜侯フィニアスは穏やかに言って会釈し、それから息子に目を移した。
「お帰り、ネイシス」
「ただいま」
短い言葉のやりとりに、深い情がこもっている。ニアナは無意識に胸に手を当て、親子の間に通う信頼と愛情から、礼儀正しく意識をそらせようとした。
それに気付いたフィンが微笑み、改めてニアナに向き直る。
「レーナが驚かせたようで、すみません。一応、止めたんですが」
「あ、いえ、大丈夫です!」
あの勢いは、いかな竜侯と言えども止められまい。ニアナは苦笑で首を振った。
「びっくりはしましたけど。でも、歓迎してもらえて嬉しいです」
演技や愛想ではない、素直な言葉が口からこぼれる。エオンがいたら天変地異の前触れだとか喚いてくれるに違いない。生意気な弟分を思い出し、ニアナは少し眉を寄せた。お土産は期待してなさいよ、と皮肉に考える。
と、そこへ、
「遅ーい!! いつまでも何やってんの、お客さん疲れてるでしょー!!」
元気の良い声が町の方から飛んできた。おやと揃って振り返ると、金髪をお下げにした少女が両手の拳を振り上げている。十五、六歳だろうか、とニアナが見当をつけると同時に、フィンが微苦笑で答えた。
「ああ、すぐに行くよ。……ニアナさん、こちらへ。彼女の家で歓迎の準備をしてくれていますから」
「えっ?」
どうして、と戸惑いながらニアナは促されるまま歩を進める。少女の前まで来ると、フィンが改めて紹介してくれた。
「この子はネリスといって、私の妹の玄孫です。ネリス、こちらがニアナさんだ」
「よろしくー!」
明るく笑いながら、ネリスが手を差し出す。ニアナは握手しながら目をぱちくりさせて、少女と竜侯を見比べた。
「初めまして。……えっと、……やしゃご?」
って、どういう血縁関係だっけ、と首を傾げる。混乱気味のニアナに、ネリスが同情の苦笑をこぼした。
「あんまり気にしない方がいいよー。フィン兄さんは長生きだから、ややこしくって。オアンディウス家はみんな親戚ってひとまとめに考えてくれたらいいから。それより、早く早く! 張り切ってご馳走作ったんだよー、おなか空いてるでしょ。皆待ってるよ!」
ほらほら、とネリスに手を引っ張られ、ニアナはいいのかなと遠慮しながらも、逆らえずについて行く。竜侯一家はそれを微笑ましく見守りながら、ゆっくり後からやって来た。
案内された家は市内でもかなり大きな部類の邸宅だったが、大勢の住人は皆、気さくで開放的だった。まるでもう昔からニアナが家族だったかのように、温かく親しげな態度で歓迎する。
疲れたでしょう、ほらそっちで足を洗って……スープが温まったよ、こっちに座って、もっと火のそばにおいでよ……
遠来の客が珍しいというわけでもなく、ただ当たり前のように、誰にも等しくそうであるように、一家は親切だ。ニアナが得意のおしゃべりを発揮するまでもなく、皆が次々に話しかけ、気遣い、笑いかける。
気付くとニアナはすっかり雰囲気に呑まれ、皆と一緒に食卓を囲んでいた。ずっとびっくりしたような顔のままの彼女に、ネイシスが横で小さく笑ってささやく。
「この一家はいつもこうなんだ。人間らしい暮らしがどういうものか、家族がどういうものか、ほとんど全部この人達に教えられたよ。もう大分前に亡くなったが、ネリス叔母には本当に世話になった」
「へぇー……」
ニアナは間の抜けた相槌を打ち、それからはたと気付いてネイシスの顔をじっと見つめた。
「ふぅん、なるほどね」
「何が『なるほど』なんだ?」
怪訝そうに聞き返したネイシスに、ニアナは微笑をこぼす。
「道理であなたが、随分まともに見えるわけだわ。いつも何考えてんだか分からない無表情だし口調も淡白だし、ぜんまい仕掛けの人形かしらって思うぐらいだけど」
「ひどいな」
「あら、先生様のお好きな『事実』を言ったまでですわよ? パルテノスでは何食べても美味しいか不味いか分からないって言って眉ひとつ動かさなかったくせに、今はちゃんと美味しそうに食べてるじゃない」
指摘してやると、ネイシスは驚いたように声を詰まらせた。自覚がなかったらしい。
困惑した様子で瞬きし、手元のスープを見つめ、匙を持つ自分の指が急に他人のものになったように、ぎこちなく動かす。
「……そうか。ああ、そういうことなんだな」
吐息に紛らすようにして、ネイシスがつぶやく。ニアナは彼の心中を慮り、軽く肩をぽんと叩いてやった。
恐らく彼自身、美味しい、と舌で味わっているわけではないのだろう。だが味が分からずとも、こうして親しい人に囲まれ、楽しく温かな団欒の中で食事をとる、その幸せもまた『美味しさ』なのだと、ようやく理解したに違いない。
ネイシスが微かながらも満足げな笑みを浮かべると、ニアナの中でも柔らかな光が広がってゆく。つられてニアナまでが幸福な気持ちになった途端、
「はいそこ、食事中にいちゃつかなーい」
おどけた声で冷やかされ、ニアナは赤面した。ネリスが食卓の向かいからニヤニヤ笑いで身を乗り出している。ネイシスの方は真顔で目をしばたたいただけで、特段照れる様子もなかった。いちゃついた覚えはないんだが、とでも訝っているのだろう。
「いえ、あの、あ、あたしは別に……っっ」
しどろもどろになったニアナに、ネリスは芝居がかった態度でしみじみと言う。
「ほんっっとに、つくづく、ご愁傷様だわー。大変でしょ? こんなのの相手するのって。こいつ全然、乙女心ってものを分かってないんだもの」
「ネリス、口が悪い」
離れた席からフィンがやんわりとたしなめる声をかける。ネリスは首を竦めただけで反省の色は見せず「だって本当のことだもーん」などと減らず口を返した。思わずニアナは失笑し、羞恥や緊張を忘れていつもの口調になった。
「ほんと、まったくその通り! 聞いてよ、このお役人様ったら、人の花嫁姿を見て『きれいだな』って褒めたかと思えば、刺繍の柄がどうだとか運針がどうだとか言い出すのよ! そこはもっと別の、言うべき事があるでしょうってのよ、ねぇ!?」
「うっわ、何それ、最低! あり得ない!」
ネリスは大袈裟なほど呆れて憤慨し、それからネイシスを冷たく一瞥した。
「全っ然、進歩してないのねー。あたしが初めて晴れ着で神殿にお参りした時も、同じようなこと言ってたしさ。こっそりお化粧してみた時なんか真顔でばっさり『不釣合いで不気味』だとかぬかしたのよ!」
「ひどッ!? そこは『化粧なんかしなくても充分可愛いよ』でしょうが!」
「うわ、ニアナさんみたいな美人に言われると恥ずかしい」
「いやいや、ネリスちゃん本当に可愛いって!」
少女二人で盛り上がりつつネイシスをこき下ろす。だしにされたネイシスは無言のまま途方に暮れて、なんとも曖昧な顔で黙々と食事を続けていた。
楽しい昼食の後、ニアナはネイシスと一緒に外へ出た。片付けを手伝うとは言ったのだが、ネリスに「ゆっくり観光してきて!」と有無を言わさず追い出されてしまったのだ。その強引さに、ニアナはなんとなく少女の虚勢を感じ取って、内心でごめんねと謝りつつ背後を振り返る。
「どうした?」
相変わらず鈍感なネイシスの爪先を、ニアナは軽く踏んづけてやった。困惑するネイシスに、「馬鹿」と一言投げつけてため息をつく。
「あの子、小さい頃からよく一緒に過ごしたんでしょ。ネリスちゃん」
「? ああ」
「……やれやれ」
誰もが一度は、成長の途中で身近に暮らしている異性に対し、未熟な恋心を抱くものだ。家族以外の親戚、あるいは隣近所の、少し年上の異性に。ネリスの場合はその対象が、不幸な事にこの朴念仁だったのだろう。親密な家族付き合いをしているのに全く進展せず、挙句に相手はどこか遠い所で見も知らぬ女と出会い、故郷まで連れてきた。となれば、心中穏やかでない筈だ。
(強がってたけど、あたしに当たらなかったのは天晴れだわ。いい子よね……もっとマトモな相手と幸せになれるといいんだけど。……っていうか何、いつの間にかあたしの知らない所で、そーゆー話として了解済みになってるわけ!? 勝手に確定されてる!? ちょっと待って待ってよ別にあたし何も言ってないし言われてないし何も決まってなんかいないのにうあぁぁぁ!)
つまり何か、今回のナナイス訪問もニアナとしては、ある種の個人的なけじめ(ついでに観光)のつもりでいたのに、向こうは既に『相手方の実家へご挨拶に』だと決めてかかっているのだろうか。冗談ではない、勘弁して欲しい。
ニアナが一人で頭を抱えて悶えていると、家からフィンが出てきた。隣にレーナがふわりと姿を現したかと見るや、途端にぱあっと笑顔になって、ニアナに駆け寄ってくる。
「うふふ、一緒にお出かけ! 素敵なところを知ってるの、案内するわね! 可愛いパン屋さんもあるの!」
お散歩お散歩、という声が聞こえたのは幻聴だろうか。なんだかぶんぶん揺れる尻尾も見える気がする。
ニアナがややこしい苦笑になっていると、フィンが失笑をごまかすように小さく咳払いした。
「ネイシスに任せておけば良いと言ったんですが……同行しても?」
「あっ、はい、もちろん! 光栄です!」
慌ててニアナは姿勢を正して一礼した。どうも竜侯が相手だと緊張する。
そこでレーナが思い出したように、息子のそばへ行って問いかけた。
「どういう風に案内する予定なの? あのね、私、あの可愛いパンを見て欲しいの。それからね……」
あれこれと母子が相談しているので、ニアナはフィンと二人になってしまい、もじもじする。何を話せば良いだろうかと顔色を窺い、穏やかな微笑に出会ってどきりとした。
――遠い。
感じたのはその一言だった。なんて遠くにいる人なんだろう、と。
造作自体はネイシスと似た顔立ちなのに、そして本人は元々は人間だったというのに、まるで半竜のネイシスよりもずっと、人から遠い存在のような表情。
軽い口調でネリスが言った、長生きだからややこしくって、一家はみんな親戚だと考えてくれたらいいよ、という言葉が、今になって重みを増してくる。
ニアナの視線に気付いたフィンが、わずかに首を傾げる。遠かった気配が少し身近に戻って来たように思われて、ニアナは口をつくままに問いかけていた。
「寂しくありませんか」
唐突で何の脈絡もないニアナの言葉を、フィンは正確に理解した。
「少しは」正直に認めてうなずき、続ける。「ですが、後を託す相手がいるという安心は、旅立つ人にとって大いに慰めになります。それに、私にはレーナがいますから」
そこで彼は少しおどけた表情を見せた。
「寂しがる暇もありませんよ」
付け足された一言に、ニアナは失笑し、おっと、と口を押さえる。そんな彼女の頭に、フィンがごく自然に、軽く手を置いた。
それだけのことで、大きな存在に祝福されたような、大丈夫だから任せなさいと言われたような、不思議な安堵が満ちてくる。ニアナは無意識に、祈るように目を閉じた。どこか遠くから響くような声がささやく。
「どうかこれからも、ネイシスのそばにいてやって下さい」
「はい」
神妙に答え、一呼吸置いてからニアナは我に返って赤くなる。慌てて顔を上げ、しどろもどろに言い逃れを始めた。
「ち、違っ! いえあの、いいい今のはその、深い意味があってのことではなくってっ」
あたふたする彼女に、フィンは軽く目をみはる。彼は笑いを堪えながらうなずき、落ち着きなさい、と言うようにぽんぽんと頭を撫でて応じた。
「分かっています。私も、そんなつもりで言ったのではありません。ただ、どんな形であってもいい、ネイシスが人として生きていけるように、どうか……お願いします」
「……はい」
ニアナは噛みしめるようにして承諾し、深くうなずいた。
自らが手放した、人としての生。それをこの竜侯は、愛惜と共に息子に授けようとしているのだ。ニアナは漠然と悟り、当のネイシスを振り返る。
偶然なのか、それともさっきから様子を見ていたのか、琥珀の双眸と目が合う。と、もう一組の金色の目が、途端に幸せそうに細められた。
「ニアナさん、パンは好き? 海は?」
無邪気に話しかけながら、レーナが駆け寄り、ニアナの手を取って早く早くと催促する。
「いっぱいいっぱい、ゆっくり見てね! フィンが大好きな町なの!」
「はい。それじゃあ、案内をよろしくお願いします」
ニアナは幸せ満面のレーナに答えながら、そうか、そういう基準なのか、と苦笑する。仲良しでいいなぁ、などと羨んでいると、反対側の隣にネイシスが並んだ。
「行こうか」
いつもと同じく、言葉は短く素っ気ない。だがもうニアナの方も慣れてしまい、微妙な響きの違いや、つながりを通じて伝わる温かさで相手の心情を理解できる。
うん、とうなずいて歩きだしたニアナの横で、レーナが楽しそうにうふふと笑った。
「家族でお散歩するのって久しぶり! 嬉しい!」
「…………」
家族って。約一名、法的には家族じゃないのがいるんですがそれは。
つんのめったニアナに代わり、ネイシスが少しばかり呆れた口調で母親をたしなめた。
「母さん、ニアナはまだ何も……」
「なぁに?」
レーナはまったく疑問など感じていない様子で、小首を傾げる。どう言ったものかと困っているネイシスに、ニアナの方が「あー、いいわ」と先回りした。
「なんとなく分かった気がする。レーナさんの基準だと、あたし、もう家族に数えられてるみたいだから。人間基準のあれこれとは別の意味でってことで」
「……すまない」
「いいえぇ別にぃ? なーんにも謝られることなんかありませんわよぉ? あたしは何にも気にしませんからお気遣いなく!」
「…………後で何か甘味を奢るよ」
「お菓子で釣れると思わないでくれる? 子供じゃないんだからね。もらうけど」
二人のやりとりに、レーナがくすくす笑う。ニアナの胸の奥でも、光が愉快げにきらめきながら踊っていた。
そうこうしてナナイスの町を堪能し、ニアナがパルテノスに帰り着いた時には、出発してから二十日ほどが経っていた。
「ニアナーおかえりー!」
「おみやげー!!」
「おみやげ、なぁにー!?」
わぁ、と子供達が群がってくる。ニアナは苦笑いで突撃を受け止めた。
「こらっ! あんた達、お土産お土産って、あたしはどうでもいいの!? 待ちなさい、色々買ってきたから、ちゃんと皆で分けるのよ。エオン、こっちに運んで!」
「へーい。っていうか姉ちゃん、なんで歩きなんだよ……竜に乗ってくるの期待してたのに、つまんねー」
ぶつくさぼやきながら、エオンがネイシスから荷物の一部を受け取り、一緒に居間まで運んでくる。ネイシスが失笑を堪えて妙な声を漏らし、ニアナが赤くなって怒り顔を作った。
「うるさいわね、竜は人間のための乗り物じゃないのよ! 失礼でしょ!」
「そりゃそうだけどさぁ。せっかくお近づきになれたのに」
「だったら今度あんたが頼んでみたら? 人間の分際ってやつを思い知るわよ」
そこでとうとう堪えきれなくなり、ネイシスが肩を震わせて笑いだした。エオンがぎょっとなって一歩離れ、それから胡散臭げに姉を見る。
「……何があったわけ?」
「あたしが殊勝にも遠慮したんだっていう美談なんだからそれで納得してなさい! ネイシスの馬鹿は笑ってないでさっさと仕事に行けば!?」
「ああ、そうだな」
ネイシスはまだ笑いの残る声で言い、残りの荷物を居間の床に置くと、空色のマントをきちんと着け直した。そのキラキラ頭に、ニアナがクッションを投げつける。近くにいた子供までが、真似してえいやと両手で別のクッションを投げた。
「こら、関係ないのにぶつけちゃ駄目でしょ」
ニアナが慌ててたしなめる。ネイシスはふたつのクッションを拾って遠くの椅子に退避させながら、小首を傾げた。何事か考えている様子なので、ニアナも目をぱちくりさせて問う。
「どうかした?」
「ん……いや、真似をされたら困るかなと」
「え?」
ニアナが戸惑っている間に、ネイシスはさり気なく歩み寄って、額に軽く口付けを落とした。途端に子供達がきゃーっと甲高い声を上げる。ニアナは真っ赤になって反射的に拳を振り上げたが、叩きつけるのはかろうじて堪えた。
「こっ……こういうのはっ、教育上、良くないと思うんだけどっ!!」
「喧嘩をするよりはいいだろう?」
「そ、それはそうだけど」
言い負かされてニアナが口ごもる。ネイシスはぽんぽんと頭を撫でて、それじゃあ、と踵を返した。慌ててニアナは、お土産分配の監督をエオンに押し付け、見送りに行く。
玄関まで来ると、ネイシスは改めてニアナに向き直った。この後、彼はもっと南にある町まで調査に出向く予定になっているのだ。
「ナナイスを案内できて良かった。セラノス院長にもよろしく伝えてくれ」
「ん。気を付けて行ってらっしゃい。……荷物を運ばせちゃって悪かったわ。ごめんなさい、ありがとう」
「それだけ一緒にいられたんだから、構わない」
さらりとまた臆面もない台詞を返してくれる。ニアナは照れ隠しのしかめっ面になり、眉間を押さえた。
「あなたのそういうところ、どういう環境で身についたものだか、よーく分かったわ。あのご両親じゃ、しょうがないわよね」
彼女のぼやきにも、ネイシスは不思議そうな顔をするだけ。ニアナはやれやれと大袈裟なため息をついてから、琥珀色の瞳を見上げた。
「良かったら、またナナイスへの帰りに寄って。そうそう一緒には行けないけど、来てくれたらお茶ぐらいは出すから」
「ああ」
ネイシスはうなずき、ふと手を伸ばしてニアナの頬に触れた。
「……っ、な、何? 何かついてる?」
動揺したニアナが変な顔をすると、彼は珍しく、ややおどけた表情になった。そして、
「いや。教育上良くないだろうから、やめておく」
ささやきながら、軽くニアナの鼻をつまんで手を離した。
「ふがっ?」
当惑するニアナに、ネイシスは微苦笑を残して歩み去る。その背が道の角を曲がるまで見送った後、ニアナは振り返って――理解した。
玄関の、扉の影から小さな頭がひとつ、ふたつ、みっつ。
「……ちゅーしないの?」
「しませんッ!! 覗くなって言ってるでしょあんた達はもおぉぉう!!」
わー、きゃー、と子供達が逃げ出し、ニアナが追いかける。
大人気ない鬼ごっこを見物していたエオンが、逃げてきた子供を捕まえて、
「馬鹿だなぁ、今度は見付からないように覗かなきゃ駄目だぞ。でなきゃ、いつまで経っても姉ちゃんがちゅーできないだろ」
などと余計な入れ知恵をした結果、お姉様から渾身の蹴りを食らった。
せっかくの『教育上の配慮』も、どうやら無駄になったようである。
(初出:2014年4月)