※2010年の4月1日は、ちょうど3月に灰王第三部のサイト連載が終わって、第四部開始まで休止中でした。
なので、別の企画を表に出しておいて、いつものトップページですよという顔で
「連載再開」と更新履歴にコレを出すという、二段構えを仕込みました。
流石に引っかかった方が多くて、かなり手応えのある四月馬鹿でした(笑)。
そんなわけで、途中までは実際の本編と同じ内容です。
一章
潮騒がさざめく。繰り返し、繰り返し。おいで、おいで、と差し招くかのように。
そう感じるのは、自分が海辺の町で育ったからだろうか。それとも、すべてのものの母であるアウディアは、誰の心にもこんな風に呼びかけるのだろうか。
フィンは砂浜に立ち、紺碧の光を全身に浴びながら目を瞑っていた。
カツーン、カツーン……
槌音が街から届く。微かな人のざわめき、生活の物音。
新しい住民がやって来て三年が過ぎ、ナナイスの人口は約千五百人にまで回復していた。かつてほどの活気はないものの、一応は『街』だと言える状態になっている。ヴェルティアが中継地としての機能を回復し、船でなら安全に沿岸都市を回れるようになって、ナナイスに流入する人も物資も増えた。
となれば当然ながら、それに伴う問題も生じる。
「竜侯様!」
市庁舎で雑用係をしている少年が、土手の階段を駆け下りながら呼んだ。フィンは目を開けて振り返り、軽くうなずいてそちらへ歩き出す。
はじめの頃はフィンも新参者に対して、名前で呼んでくれとか大袈裟にしないでくれとか、周りが呆れるほど律儀にいちいち頼んでいたのだが、その内、彼らの心情を悟って諦めた。
新しくやってきたナナイス市民が、竜侯様、竜侯様、と彼を慕うのは、彼が万能の守護者であることを期待しているためではなかった。むろん竜侯に護られた都市というのは魅力的だが、そもそもナナイスは廃墟だった場所で、安全かつ安楽ではないと誰もが承知していたのだから。
彼らが求めたのは、精神的な拠所としての竜侯だった。
一度は灰に帰し、歴史も血筋も絶えた街で、新しく暮らしてゆくために。市民の結束の要となる存在が求められ、そこに竜侯という存在はうってつけだった、というわけだ。
ならば甘んじて過大な敬意を受けよう、フィンはそう覚悟を決めた。求めに見合うだけの働きをして、彼らに応えれば良いのだ、と。
「あの業者が来ました。応接室で待たせてあります。それと、イスレヴ様がお見えになったので執務室に」
「分かった。ありがとう」
フィンは礼を言って、少年と共に市庁舎へ戻った。広場に面して建つ小ぢんまりとした庁舎だが、会議室に執務室、応接室に休憩室、と一通りは揃っている。最近は執務室がほとんどフィンの私室になりつつあった。何かと忙しいもので、短い空き時間があると、しょっちゅう椅子に座ったまま寝てしまうからなのだが。
ともあれ、今はその執務室にイスレヴがいて、あれこれと書類を読み漁っていた。彼は普段はウィネアにいるのだが、定期的にナナイスを訪れ、数日滞在しては行政の相談に乗ってくれていた。当初はありがたがっていた市民だが、最近では陰で、いつまで皇帝に監視されるのか、などとささやく者も現れだしている。フィンはそうした声を抑えるために、イスレヴと共に広場で市民の声を聞くなど、努力していた。
「お早うございます。ちょうど良かった、立ち会って頂きたい件があるんです」
フィンが挨拶すると、イスレヴは手に持っていた書類をひらひらさせた。
「これかね。復興の賑わいに目をつけるとは、呆れたものだな」
「ええ、まったく。ただ、法的に問題はないはずだと本人が言うものですから」
「確かに、帝国の法ではこの業者を罰せられんな。だがここは自治都市だ。君の裁量で条例を制定してはどうかね」
「今すぐには無理です。議会にかけないと。ですから……」
「私が立ち会って、圧力をかけるわけか。承った。本国でもこの手のやり口を規制するように、ずっと働きかけているんだがね。この三年、私が北部にいる間、あちらでは何の進展もないようだ」
やれやれ。イスレヴは嘆かわしげに頭を振り、書類を置いてフィンの方へやってきた。
「この業者はもう来ているのかね?」
「はい、応接室に待たせてあります。呼んで来ましょう」
うなずいて行きかけたフィンを、イスレヴが苦笑して止めた。
「何も君が呼びにいくことはなかろう。客人ならともかく、竜侯閣下が出向いてやっては、付け上がらせるだけだぞ」
それもそうですね、などとフィンが間の抜けたことを言っている間に、さきほどの雑用係が「呼んで参ります」と機敏に出て行った。
問題の業者が来るのを待つ間、イスレヴは慈しむようにフィンを見やって言った。
「相変わらず、竜侯の地位に慣れんようだね」
「仰々しく呼ばれるのには慣れました。ですが……そうですね、権威の使い方は、やっぱりよく分かりません」
「経験の積み重ねで分かるようになるさ。君もこの三年で、以前よりも堂々とした雰囲気を身につけたことだしな」
「そうでしょうか?」
フィンは困惑気味に首を傾げる。そんな仕草をすると、竜侯様にしては少々素朴な風情があって、イスレヴはつい苦笑してしまうのだった。
「そういうところは変わらんな。そこが君の良いところだが。人の上に立つようになった途端、自分が他の人々とは違う存在だと勘違いする輩は後を絶たんものだが……さて、その手の一人が来たようだ」
少年の案内で――実のところ案内が必要なほど広い建物でもないのだが――現れたのは、明らかに作りものの笑みを顔に張り付かせた男だった。
「どうも、こりゃ、竜侯様に本国の監査官までお揃いで。何の御用でしょう」
白々しく言った男に、フィンとイスレヴは冷ややかなまなざしを注いだ。一呼吸の間を置いてから、挨拶を省いてフィンが切り出す。
「あなたには、市営共同住宅の建設を任せましたが、その仕事の進め方に問題があると、議会の方から是正勧告が出されたはずですね」
「そうでしたか? しかし、私は何も法に背いたことはしておりませんよ。何が問題なのか教えて貰いたいもんですね」
あくまで男はとぼける。フィンは厳しい面持ちになり、さきほどイスレヴが見ていた書類を手に取って読み上げた。
「……『上の者は、雇用した者に対して日給での支払いを定めながら、故意に待機日を設けることにより食費・宿泊費を支払わせ、不当に給与を搾取しているものと判断された』。つまりあなたは、日雇いのはずの働き手を無給の日まで拘束し、彼らから生活費を吸い上げて、支払った給料を取り返している、と、この調査報告に書かれています。事実に反する内容がありますか」
「そりゃ歪曲ってもんでしょうが!」
男は大袈裟に呆れたふりをして、両手を広げた。
「私は住む所のない連中に、寝床と食事を提供してやってるんですよ。それも格安でね。何を非難されるのか分かりませんな!」
「ほう、分からないと?」イスレヴがすっと目を細めた。「君のところでは日雇いの者をどう扱っているのかね」
「そりゃあ、まっとうに扱ってるに決まってるじゃありませんか! 待機日だって無理強いしてるわけじゃない。作業の都合で出来ることがなかったり、仕方なくですよ。それとも、一日の休みもなく働かせろってんですかね? だいたい、連中だって喜んでますよ! 休みの日には娯楽まで用意してやってるんですからね!」
「娯楽?」
眉を寄せたフィンに構わず、男はべらべら喋り続けた。
「うちの作業所にはサイコロ遊びの道具もあれば、美味い酒と食い物も揃えてありますよ。働いて、稼いだ金で遊んで、言うことないじゃありませんか。なんならお二方もおいでになっちゃどうです。特別に、綺麗どころも揃えますよ」
下卑た笑いを貼り付け、男はフィンに意味ありげな目をくれた。
「なんでも竜侯様は、金髪の娘がお好みだそうで……」
「いい加減にしろッッ!!」
堪忍袋の緒が切れて、フィンは怒声を張り上げた。男はびっくりして目をぱちくりさせ、慌てて後ずさりながら、きょろきょろイスレヴとフィンを見比べる。
「えっ? え、あれ……あれっ、イスレヴ様?」
「不正を働きながら、それがばれたら今度は賄賂か! 貴様のような奴はナナイスに必要ない、出て行けッ!!」
フィンが言うのを待ちかねていたように、隣室からエウォーレスとエウゲニスの双子が現れた。ほとんど楽しげに、意地悪な笑みを浮かべて男の両腕をがっちり捕え、
「はいはい、竜侯様を怒らせちゃっちゃーおしまいだね~」
「岬まで送ってあげるから、気持ち良ーくダイブしようねー」
陽気に恐ろしいことを言いながら、ずるずる男を引きずっていく。
「ちょっ……イスレヴ様! 話がちが……っっもがっ!」
外に連れ出される寸前、男の叫びが届いた。フィンは不審な顔になり、当のイスレヴを振り返る。本国仕込みの狸議員は、涼しい顔で、書類を扇子代わりにしていた。
「イスレヴ殿」フィンは詰問口調で呼びかける。「あの男に、先に何か言われたのですか」
「いや、私は何も言っとらんよ? ただ、君もあの御仁も、結構間が抜けているねぇ」
「……はい?」
「あまり人の話を鵜呑みにしてはいかんよ。特に、こんな日はな」
「??? 何の話ですか」
「まだ気付かんのかね? しっかりしてくれ給えよ。こんな早くに連載が再開されるわけがないだろうに」
「え? え、あの、イスレヴ殿、どちらへ」
「ウィネアに帰るんだよ。本当の出番が来るまで、もうしばらく休ませて貰いたいからね」
「は!? イスレヴ殿、ちょっ……何がどうなってるんですか!!!」
混乱するフィンを一人残して、イスレヴは平然と市庁舎を出て行く。
神殿の立つ岬の突端から、微かな叫びが尾を引いて、ドボンと小さな水しぶきを上げた。泳ぐにはまだ早い、四月のはじめの日の出来事……。
――続きません。