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毎日のこと

※『嘘つき姫と竜の騎士』後日談その2。ようやっとゴール。ネイシスの年齢とかいろいろ爆弾が。

 

 

 かつて帝国が死に瀕していた頃から比べると、現在の暮らしはずいぶん豊かになった。

 飢えは遠ざかり、それどころか多くの人々がその日に何を食べようかと選ぶことができる時代になっている。近郊の農畜産物のみならず、遠方からの様々な食材が市場に並び、調理方法も調味料も多彩になった。

 とは言え、庶民はその恩恵を充分に享受できるわけでもない。ことに、限られた予算で大人数の胃袋を満たさなければならない場合は、どうしても食事内容が単調になる。

 大鍋で煮込んだスープと、ふすま入りの素っ気ないパン。今日もニアナは厨房で、代わり映えしない食事を用意していた。

 

「んー、あとの具は……っと。そうそう、こないだもらった蕪があった! あれ使ったら美味しいわよね。エオン! 根菜蔵から取ってきて!」

 あとは赤豆と塩漬け肉の残りと、風味付けに月桂樹と……、と手際よく献立を考え、材料を揃えていく。すっかり慣れたものだ。院長の妻、カエサがつくづくと感心した。

「ニアナちゃんが来てくれて、本当に助かったわぁ。いつもありがとう、なんだか頼りっぱなしで申し訳ないわね」

「そんな、このぐらい。今までが奥様ひとりに任せすぎだったんですよ」

 ニアナは豆を鍋に移しながら応じる。彼女とエオンが住み込みになる前は、ほとんど院長夫婦二人だけで切り盛りしているようなものだったのだ。他にも職員はいるが、通いだったり兼業だったり長く続かなかったりと、常に人手不足だった。

 カエサは少しためらってから、苦笑を返した。

「忙しさ自体はなんとかなっていたんだけど、正直、一番助かっているのはお料理なのよ」

「えっ?」

「実を言うと、私は昔から料理が嫌いで……そもそも、美味しいものを食べたい、という気持ちが薄いの。どうして一日二回も三回も食べなきゃならないんだろう、って恨めしいぐらいよ。食べずに生きられないのかしらと、本気で考えたりもしたわ」

 思いがけない告白に、ニアナは目を丸くした。よもやまさか、この世に「食べたくない」人間がいるとは想像してもみなかった。食が細いとか好き嫌いが多いとかはあっても、食べること自体が面倒くさいとは。

「だから本当に、毎日毎日食事をつくるのがつらくて。それでも、旦那様や子供たちが喜んでくれるから、なんとか頑張ってきたのだけど……そろそろ、疲れてきていたの。だからニアナちゃんがこんな風にうまくやりくりして、いろいろ工夫して作ってくれるようになって、天の助けだと思ってるわ。ごめんなさいね。あなたは今でも、お芝居の世界で身を立てたいんでしょうに」

 感謝と詫びを述べて、カエサは頭を下げた。そもそもエディクスがニアナに養護院の仕事を斡旋したのも、“子供たちを楽しませる係”という名目だったではないか。

 ニアナは胸に小石がつかえたのをごまかすように、明るい声を上げた。

「気にしないでください、もともとあたしの食い意地が張ってるだけですから! どっちにしても自分が食べるには料理しなきゃならないんだから、それならちょっとでも美味しいものを、って、それだけですよ!」

 生まれ育ちが貧しくて、いつも腹が空いていた。食べられるものは何でも食べるばかりでなく、他人が食べないものも工夫して食べた。その経験が生きているだけだ。

「舞台に未練がないとは言いませんけど、でも、もういいんです。ほら、演劇祭やったりもしてますし、子供たち相手に小芝居するのは毎日ですしね!」

 ニアナが笑い飛ばすと、カエサも調子を合わせるように目を細めた。

「あなたは本当に良い子ね、ありがとう。ふふっ、あなたぐらい美人でお料理上手なら、どんな殿方の心も胃袋も、がっちり掴んで離さないでしょうね」

「あ、あはは……で、でも院長先生も奥様ひとすじじゃないですか」

 予期せぬ突きを入れられて怯んだものの、素早くかわして反撃する。

 あらあらうふふ、とカエサは笑ってごまかしたが、厨房には微妙な緊張が漂い、戻ってきたエオンを竦ませることになった。

 

 翌日、市場に出かけたニアナは食材を求める女たちの姿を眺め、ぼんやりと昨日のやりとりを思い返していた。

(胃袋を掴む、かぁ。実際確かに、食べ物で釣るのはかなり有効なのよね)

 夫婦喧嘩しても美味しいごはんを食べたら落ち着く、とか。厄介な交渉相手はまず御馳走で歓待する、とか。

(エディクス殿下の差し入れも、お菓子が大半だし)

 お人好し王子様だから計算してのことではなかろうが、実際あれには心動かされる。

 意中の男性を射止めるために料理修行する乙女も昔から絶えない。

 そこまで考えて、ニアナはしみじみと瞑目した。

(だけどあの人、味覚が壊滅的なんですけど)

 あの人。むろんキラキラ頭の半竜の文化委員氏である。

 幸か不幸か、彼はニアナの心というか本質そのものを好きだと言ってくれるが、それが変わらないとは限らないし、第一、竜の好き嫌いだとかまったくもって理解できない。胃袋で心も掴んでおけるなら、よほど話は簡単だったのに。

「ねえ、ネイシス」

 くるりと振り向いて呼びかける。ちょうどまさに声をかけようとしていた当人が、やや面食らったようにまばたきした。

「気付いていたのか」

「当たり前でしょ」

 つながりがあるのだから、近くに来れば気配でわかる。今から行く、と言葉にして伝えられなかったから、知らんふりをしていただけだ。

 ニアナはなんとなく八つ当たりしたい気分なのを抑え、小首を傾げて琥珀の目を見上げた。

「院に来るつもりだったのなら、ちょうどいいから買い物を手伝ってくれる? それともたまたま行き合っただけなのかしら」

「ああ、いや……」

 珍しくネイシスは言い淀み、視線をそらせた。ニアナが不審げに眉を寄せると、彼は何事か踏ん切りをつけるように咳払いして言った。

「君に知らせたいことがある。一緒に来てくれないか、すぐそこなんだが」

「時間はあるから、いいけど」

 なんなのだろう。疑問を心で投げかけたが、はぐらかすような手応えしか得られない。こっちの心は筒抜けなのに不公平だ。

 ニアナは正体不明の苛立ちが募るのをごまかしつつ、ネイシスの後について行く。市場を離れ、広場を抜けて、富裕な議員や商人らの邸宅が並ぶ界隈へ。その一角に、こぢんまりとした、しかし瀟洒で品位を感じさせる新しい建物ができていた。

「初めて見るわね。いつの間にこんな建物ができたのかしら」

「つい三日前だ。ここが共和国の大使館になる」

「えっ? ……あー、そういえば」

 しばらく前に、ようやく正式に国交回復の手続きが終わったとかなんとか、エディクスが教えてくれたような記憶がある。今後は人と物の往来が盛んになるでしょうね、とかなんとか。

 そうか、大使館も置くのか、とニアナは建物を眺めた。どんな人が来るのかな、とぼんやり思ったところで、ネイシスが告げた。

「私の新しい職場だ」

「しょく……、えぇぇっ!?」

 一拍置いて素っ頓狂な叫びを上げ、思わずニアナは大きく一歩後ずさった。

「それってつまり、あなたが大使ってこと!?」

「違う」

「なんだ、びっくりさせないでよ。共和国も無茶するわーってのけぞったじゃない」

 ほー、と胸を撫で下ろす。大使が具体的に何をするのかまでは知らないが、およそ交渉事というものについて、この青年があまりにも向いていないことは明らかだ。

 ネイシスは「ひどいな」と複雑な顔でぼやいたが、無茶という点は否定しなかった。

「素人の君がそう思うぐらいなのに、議会が私を任命するわけがないだろう。私は大使付きの書記官になる」

 説明しながら、彼は門扉を開けて中へといざなった。いいのかな、と遠慮しつつニアナは中に入り、促されるまま庭園を歩きだす。植え込みや彫像の種類も配置も、趣味が良い。もしかしてネイシスも設計にかかわったのではなかろうか、と推測しつつ彼女は話を続けた。

「なるほど。交渉に直接かかわることはなくても、相手の腹の内を見抜いて大使さんに教えたりできる、ってわけね。でもそうしたら、美術品のほうはいいの?」

「ああ。この二十年ほどで大体の調査は終わったから、あとは各地で間違いなく保存されていることを時々確かめるだけで済む」

「へえ、そうなの。……二十年!?」

 納得してから気付き、ニアナはまたしても愕然とする。大声を上げ、それからいやいや待て待て、と半笑いになった。

「ああそっか、前の文化委員さんから数えて、ってことね。あははびっくりしちゃった」

「いや、私が携わった期間だが」

「嘘!?」

 思わずニアナは棒立ちになり、目と口を全開にしてしまった。対してネイシスはいつも通り、いとも平静かつ淡泊に応じる。

「言っていなかったか? 私は公用歴千百三十二年生まれだ」

 もはやニアナは絶句したきり声も出ない。どころか呼吸も忘れている。生まれ年から計算すると、眼前の青年は四十二、三歳ということだ。どう見ても二十代前半なのに。

 彼女の驚愕と不信を感じ取り、ネイシスはちょっと肩を竦めた。

「半竜だから、人間と同じように暦で年齢を数えるといささかおかしなことにはなるが。嘘じゃない」

「……眩暈がするわ。ああでも、道理で人を子供扱いしてくれるわけよね」

 ニアナは額を押さえてうつむき、ため息をついた。もう十八で普通に結婚しておかしくない歳だ、と怒鳴ってやった時も、彼はまるでその事実に動じた様子がなかった。あれから二年、二十歳になってもう行き遅れだわと自嘲することも増えたが、彼にとっては大して変わらないのだろう。

 唸った彼女に、ネイシスは複雑な表情で弁解した。

「まだすべてにおいて大人ではない、と言いたかったんだ。君を十歳やそこらの子供と同じに考えているわけじゃない」

 初めて耳にする声音だった。何やら困ったような、もしかしたら恥じているかのような。つながりを通じてその感情を察したニアナは、珍しい、と相手の顔を見つめた。彼がこんなややこしい思いを抱くことがあるとは。

 ネイシスはまたしても、逃げるように顔を伏せた。今までにない反応だ。いつだって彼は正面から目を見て、呆れるほど単刀直入にものを言うばかりであったのに。

 しばらく待ったが、話の続きが出て来ない。ニアナは驚きの連続で思考が半ば麻痺したまま、なんとなくぐるりの庭園を両手で示して言った。

「……えーっと。まぁ、とにかく、これからはあなたもパルテノスに住む、ってことでいいのかしら。ここに来ればあなたに会えるのね?」

 それがどういう意味を持つのか、なぜネイシスが彼女をここまで連れてきたのか、そういったことにまで考えが回っていない。

 さらに沈黙を挟んだのち、ようやくネイシスがニアナに向き直った。

「一緒に暮らさないか」

「……へ?」

 ぽかん、とニアナはまばたきし、間の抜けた声を漏らした。何を言われたのか理解する前に、言葉を換えて繰り返される。

「結婚して欲しい」

 間違えようのない明確な一言が、ニアナの胸をまともに打った。見る間に頬に血がのぼり、深緑の瞳が潤む。

「――あ、あなたって人は、なんでそう、いつもいつも……っっ! いきなりすぎるでしょおぉぉ!?」

 両の拳を振り上げて絶叫しつつ、心は一瞬のためらいもなく歓喜と肯定を全力でぶつけていた。あまりに驚かされすぎて、地位だの年齢だの種族だの将来だのにかかずらう理性が既に力尽きていたらしい。

 彼女の反応を受けて、やっとネイシスが安堵の笑みを広げた。

「ああ……、ああ、良かった。こんなに緊張したのは生まれて初めてだ。ありがとう」

「待ちなさいよあたし何も言ってないわよ!? 馬鹿!! 待ちなさいってば!」

 抗議もむなしく、遠慮なく抱きしめられる。胸奥の光は洪水のように眩しく渦を巻き、もうまったく手が付けられない。ニアナは真っ赤になってじたばたしたが、そのうち疲れて諦めた。

「ぅあー……もう、信じられない、本当にこれが四十過ぎた大人のやることなの?」

 照れ隠しにぼやくと、恐縮そうな苦笑が耳をくすぐった。ようやく少し落ち着いたネイシスがニアナを離し、畏まって片手を胸に当てる正式な礼をした。

「改めて感謝を、フェリニアナ」

「ああぁやめて恥ずかしい! っていうか本当にあたしまだ返事してないわよ!? 大使付き書記官っていうのがどのぐらい偉いのか知らないけど、あたしに奥さんが務まると思うの? 言っとくけど院から離れるつもりないからね!」

 両手で頭を掻きむしるようにして、早口で一気にまくし立てる。ネイシスはまだいくらか高揚を残しつつも、いたって真面目に答えてくれた。

「もちろん。君はここから養護院に通えばいい。私の世話は必要ないし、公的な場に同伴して芝居を打つこともない。したいと言うなら止めないが」

「つまり、あたしが毎日あなたのごはん作ったり服を繕ったりする必要もない、ってこと?」

「そういう労力は、院の子供たちのために使うべきだろう。大使館の日常雑務には人を雇うし、私も自分の面倒は見られる」

「……そりゃまぁ、ねぇ……胃袋掴む必要ないのは知ってるけど」

 なんとなくがっかりしたような、複雑な気分でつぶやく。あなたのために腕によりをかけて作ったのよ、はいあーん、だとか茶番劇をしたいわけではないが、最初からすっぱり要らないと言われると、それはそれで味気ない。

「胃袋?」

「院長先生の奥様にね、褒められたの。お料理上手だから殿方の心と胃袋をがっちり掴めるわよ、って」

 怪訝な顔をしたネイシスに説明してやると、彼はああと納得し、次いでふと気付いたように琥珀の目をしばたたいた。

「そういえば、君の手料理を一度も食べたことがないな」

「上手って言っても、乏しい予算でやりくりするぶんには、ってことよ。お金があるなら上等のお店で食べるほうが美味しいし、第一あなた、味オンチじゃないの。たとえあたしが毎日ごはん作って待ってるとしたって、意味ないでしょ」

「確かに、味はわからないが」

 ネイシスはひとまずそう認め、つと手を伸ばして軽くニアナの頬に指先を触れさせた。

「これから毎日、君と朝夕食卓を共にし、時には手ずから食事を作ってくれるなら、どれほど嬉しいか」

「……っ」

「こうして直に君の姿を見て声を聞き、君に触れられるだけでも幸せだが、それにも増して」

「あぁあのねぇ! ちょっとはお芝居でも見て勉強しろって言ったけど、言ったけど! こんな恥ずかしい台詞、聞いたことないわよ!?」

 溺れるほどの愛情を真正面から浴びせられて、腰が抜けそうだ。うう、と呻いてぎゅっと目を瞑る。恥ずかしすぎて、相手の表情を見ていられない。頬から離れた手がふわりと頭を撫でた。

「ニアナ?」

 優しいささやきが返事を促す。ニアナは半ば体当たりのように抱きつくと、肩に顔を埋めて決死の反撃をくらわせた。

「わかったわよ、もう、毎日毎日、飽きるほど幸せ浸りにしてやるわよ覚悟しなさい!」

「それこそ最上のご馳走だ」

 ――たった一言であえなく撃沈されたのだったが。

 

 

(初出:2016年11月)