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父の記憶

※本編完結から5~6年後、『薔薇と糸杉』の少し前。

 シェイダールの父親について。

 

 

 

 王の子を育むふたつの宮が完成し、『柘榴の宮』から一人二人と子が移されて、いたずら盛り泣き盛りの幼子らによる騒音が王宮の日常の一部になった頃のこと。

 シェイダールはいつものように、リッダーシュだけを連れて王宮の庭園を歩いていた。

 

 玉座で報告を待っているより自分で見に行ったほうが早くて正確、その場で対処もできる。というわけでこのせっかちな大王様は、定期的に自ら各所を巡回する決まりをつくったのである。

 

 王の仕事は国内外の広範囲にわたり、日常住み暮らす場所の雑事にかまけてはいられないのだが、それでも彼は自分の目で諸々のことを確かめたがった。特に王宮内には『路』を開かれたばかりの者が大勢いる。皆が安全に過ごし、つつがなく王宮を動かしていくには、ウルヴェーユに優れた人間の“手入れ”が不可欠なのだ。

 

 ――というのは事実ではあるが建前でもあり。

 

 今日も今日とてシェイダールは愛娘のもとを訪ね、溺愛ぶりを発揮して、やっと宮から出てきたところであった。

 まだ頬が緩み足取りも浮ついているほどの子煩悩ぶりに、リッダーシュが笑いを堪えて変な顔をする。だがふと、その瞳が切なさを帯びた。誰かの面影を探すような遠いまなざしを主君の横顔に向け、感慨を込めて言う。

 

「おぬしもすっかり『父親』だな」

 

 表面だけを捉えるなら、単純な事実を述べただけの言葉。だがその声音の深さに、シェイダールは浮かれた気配を消して立ち止まった。

 

「そうか? 俺自身は、父親らしいつとめを果たせている気がしないな。つい昨日も、シャニカにばかり入れ込んでないで息子のほうも見てくれとか、文句を言われたばかりだ」

 ぼやきつつ、行く手の建物を見やる。今は四歳と五歳の二人が暮らす『糸杉の宮』。複雑な感情をごまかすように、彼は肩を竦めて続けた。

「そう言われてもシャニカは可愛いし、恐ろしいほど優秀なんだから特別扱いは当然だ。……あんな目に遭わせた償いのためにも」

 

 最後の一言は聞き取りにくいつぶやきだったが、リッダーシュには届いた。当事者のひとりである従者は沈黙し、空を仰ぐ。

 涼しい風がナツメヤシの葉を揺らし、碧いさざめきが地上にわだかまる影を吹き払うのを待って、彼は主君に笑みを向けた。

 

「おぬしの父御はどのような人となりだったのだ?」

 

 不意を突かれたシェイダールは返答に詰まり、目をしばたたく。ちょっと考えてから、ひとまず曖昧に前置きした。

「十歳までしかいなかったからな。あまり思い出があるわけじゃないんだが」

 腕組みし、宙に目をやって思案しつつ一言。

「そうだな……まあ、良く言えばおおらかだった」

「ほう?」

 リッダーシュが意外そうな相槌を打った。シェイダールは瞑目し、眉間に皺を寄せる。

「悪く言えば無頓着で無神経、となるのかな」

「それはまた随分な」

 

 リッダーシュは当惑顔をした。この主君は父を殺した祭司を憎み、同じような犠牲を出させないと決意したがゆえに、茨の道を歩み険しい崖を這い登ってきたのではないか。そのすべての原点となった父への想いがこれとは。

 シェイダールも自覚はしており、なんともややこしい顔で眉間を揉んだ。

 

「悪感情があるわけじゃない。今になって客観的に振り返ると、そう言わざるを得ない、という話だ。……俺が子供の頃、音に色が見えると言っても、誰も信じなかった。よその連中には馬鹿にされたり嘘つきと罵られたりしたし、母は……どこか悪いんじゃないかと心配した。父だけが、否定も肯定もしなかった」

 

 ため息をついた彼の脳裏に、もうすっかり忘れかけていた父の声がよみがえる。

 

 ――そうか、青いのか。おまえは面白いことを言うなぁ……

 

 無邪気に鳥を指さして、今の声はすごく青いね、と言った息子に、父は最初そのように笑っていた。それがいつしか困ったような曖昧な顔で、父さんにはわからないな、と言うようになった。おそらく母と意見が食い違って、何か揉めたのだろう。

 ただそれでも、シェイダールが嘘をついているとは言わなかった。

 

「何事につけ、あるがままを受け入れる、と言えば寛容に聞こえるだろうが。今思うと、それが何を意味するのか、どう判断すべきか、ひとつひとつについてよく考えたりしなかったんだろう。そんなだから、他人が近付こうともしない女に平気で話しかけて、自分を殺す口実を敵にくれてやるはめになったんだ」

 

 忌々しげに唸り、ぎりっと奥歯を噛みしめる。いまだ胸にくすぶる熾火が朱く瞬き、その光が紫の双眸に宿る。

 

 横からリッダーシュが静かにささやいた。

「そのような軽率なふるまいをすべきではなかった、と?」

 違うとわかっていて、それを声に出すよう促す質問だった。シェイダールは軽く眉を上げ、皮肉めかした微苦笑を浮かべる。毎度この友人のおかげでおのれの考えを整理できていると、改めて認識したのだ。

 おまえがいてくれて良かった、との思いは胸中に留め、彼は相手の質問に答えた。

 

「いいや。ただ、皆と違うことをするなら、それが理由で殺されないだけの強さと力が必要なんだ。腕力でも、権力や人脈でも、あるいは単に精神力でも。……父にはその自覚がなかった。自分が、隙あらば殺したいほど憎まれているとは」

「あるいは、憎い相手を隙あらば殺すほど人間は残酷なものだ、とは夢にも思わなかったか」

 リッダーシュがまた助け船を出してくれる。シェイダールはふっと嘆息した。

「ああ。恐らく善良で……俺と違って、こだわりのない性格だったんだろう。ああそうだ、たとえば俺が捕まえた蝗《イナゴ》を観察していたら、母には金切り声で怒られたが、父は『まあいいじゃないか、ははは』で済ませたからな」

 

 これ以上空気を重くしたくなくて、軽い話に切り替える。リッダーシュがふきだした。

 

「ご母堂はおぬしに似て気が強く賢い方だと聞き及んでいたが、やはり虫は苦手なのか」

「そうじゃない。虫でも蛇でも叩き潰せるさ。ただ、俺が蝗の肢や翅をひとつひとつばらして並べて数えたりしているのが、不気味だったらしい」

「…………」

「なんだその顔。おまえだってやったことあるだろう、虫をばらすぐらい!」

「いや……ちょっと待ってくれ、自分の記憶に自信が持てなくなってきた。確かに子供の頃はよく虫捕りをした、うん。蟋蟀《コオロギ》や蜘蛛《クモ》を戦わせて遊んだり。だがさすがに、わざとばらばらにしたことは……ない、な」

「似たようなもんだろう、上品ぶりやがって。お坊ちゃまめ」

 シェイダールは鼻を鳴らして憤慨してから、周囲を見回して言い添えた。

「まぁ七歳で王宮に来たんなら、虫で遊ぶ暇もなかっただろうけどな」

 

 清掃の行き届いた王宮は、故郷の村とは環境がまったく違う。むろんここも花壇や果樹園があるので虫だっているが、そんなものをいじらなくても、もっと楽しく興味をそそるものが溢れているのだ。子供とはいえ馬術弓術の訓練や勉学に忙しかっただろうし。

 

 今更ながら自分が野趣あふれる田舎育ちの身だと思い出され、シェイダールはいささか鼻白んで頬を掻く。ごまかすようにぼそりと、

「まぁしかし俺の子なら……」

 言いかけた語尾に、召使の悲鳴が重なった。

 

 発生源はもちろん『糸杉の宮』。いけませんおやめください、誰か捕まえて、といった言葉を間に挟みつつ、化け物でも出たかのような阿鼻叫喚と騒音が響きわたる。

 主従はその場に立ち尽くしていたが、ややあってあるじが天を仰ぎ、従者がうつむいて笑いだした。

 

「やれやれ。まあいいじゃないかハハハ、では済まないだろうな……おいリッダーシュ、笑ってる場合か。他人事じゃないぞ、おまえも一緒にあの騒ぎを収拾するんだ」

「御意、我が君」

 

 なんとか笑いを堪えて応じたものの、リッダーシュの肩はまだ震えている。シェイダールは不敬な従者の背を叩くと、瑣末事ながら父親らしいことをすべく、気合いを入れて歩きだしたのだった。

 

 

(終)