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魔法の右手

※『夜明け~』現代パロその2(ただし書いたのはこちらが先)

 設定などは前の話を参照。

 

 

 すっかり日暮れた後になって、いつもは静かなモバイルがいきなり鳴った。

 表示された名前は、近所に住む女子大学生だ。何かの非常時にはいつでも連絡していらっしゃい、と番号を渡した相手。

 

「どうしました、ジェハナさん」

 

 慌てて出ると、なんと彼女は泣いている。かなり怯え、取り乱して、すぐ来てくれと言うのだ。

 警察沙汰のあれこれが脳裏をよぎり、タスハは大急ぎでコートを羽織って飛び出した。

 

 アパートメントに駆け付けてみれば、ジェハナは自室のドア前で震えていた。白い息を吐きながら足踏みし、せわしなく周囲を見回している。

 

「あっ、司祭様!」

「大丈夫ですか、何があったんです。警察には?」

 

 これはただ事ではない。タスハが緊張して問いかけると、彼女は涙まじりに詫びた。

 

「ごめんなさい、こんな時間に。でも、ほ、ほかに頼れる人がいなくて」

「構いません。そのために連絡先をお渡ししたのですから。お怪我はありませんか? 部屋を荒らされでもしましたか」

「……く、クモが」

「え?」

「蜘蛛が出たんです……っ!」

 

 か細い声を振り絞るようにして言った直後、またぽろぽろと大粒の涙が落ちる。

 拍子抜けしてぽかんと立ち尽くすタスハの前で、ジェハナは嗚咽を堪えようと手で口を覆い、合間合間に訴えた。

 

「ち、小さいのじゃ、ないんです! お、大きくて、怖くて、わたし」

「……それは、なんと……」

 

 タスハは曖昧に応じ、震える肩にひとまず両手を置いてぽんぽんとなだめた。大事でなくて良かったのだが、微妙に複雑な気分ではある。

 

(いやいや、彼女にとっては一大事だからこそ、私を呼んだんだ)

 

 たかが蜘蛛で、などと軽んじてはいけない。恐怖症の人間にとって、虫や蛇の類は死ぬほど恐ろしいのだから。現にこの怯えようときたら、蜘蛛どころか羆に襲われでもしたかのようではないか。

 

「では私が中に入って、退治してきたら良いのですね」

「ごめ、っなさい……お願いします。さっきはリビングに、いたのですけど」

 

 ぐすっ、と鼻を鳴らしてジェハナはドアのキーを回す。ノブには触れない。扉を開けた途端に上から落ちてきたりすまいかと恐れているのだ。

 

 タスハは慎重にドアを開け、素早く壁や天井に目を走らせてから滑り込んだ。余計なことは一切考えず、蜘蛛の姿だけを探してまっすぐリビングを目指す。

 電灯がついたままの部屋、暖かな昼光色に照らされた白い壁の天井付近に、すぐそれは見付かった。

 

「アシダカグモか」

 

 ほっ、と彼は息をついた。見た目は少々グロテスクだが、毒を持たない安全なやつだ。しかも、たぶん蜘蛛よりも嫌われているだろうゴキブリを捕食してくれるという、むしろ強い味方なのだが……まぁ、あの状態の彼女にそう説くのは酷だろう。

 

 新聞紙を見付けて拝借し、適当に丸めたそこへ蜘蛛を追い込んで捕獲すると、ベランダに出て外へ放してやった。この寒さだからまた屋内のどこかへ逃げ込んでくるだろうが、とりあえずしばらくこの部屋に出なければ良い。

 

 家主に報告しようとベランダから中へ戻った途端、不意に己がいる場所を意識してしまい、彼は今さらかっと赤くなった。若い女性の一人暮らし部屋に!

 

 リビングに置かれた雑誌や新聞、コーヒーが飲みさしになったマグカップ。

 ソファやサイドテーブル、シンプルな収納棚などのインテリアは、ほどほどに女性らしい甘さを備えつつも知的に洗練され、いかにも彼女らしい。

 

(って待て待て、何を観察しているんだ馬鹿、失礼だぞ!)

 

 タスハは顔が火照るのを意識し、慌ててぶんぶん首を振った。カーペットだけ見つめて足早に部屋を出る。

 廊下の途中で、ドアが半開きになっているベッドルームに気付いてしまい、彼は玄関を出る前に三回深呼吸したうえ、十字を切って不埒な考えを抱いたことに赦しを乞わなければならなかった。

 

 どうにか平静を取り繕って外に出ると、ジェハナが食い入るように見つめてきた。さすがにもう涙は乾いている。タスハは微笑を返した。

 

「もう入っても大丈夫ですよ」

「あっ……ありがとうございます!」

 がばっ、と勢いよく頭を下げてから、ジェハナは恥ずかしそうに言い訳した。

「本当に、こんなことで呼び出したりして、すみませんでした。でもあの、……こんなことだから、余計に、頼めなくて」

 

 些細なことだが彼女にとっては大きな弱みだし、人を部屋に上げることになるのだから、よほど信用できる相手でなければ。そのうえ近くに住んでいてすぐ来てくれる人。確かに、なかなか条件が厳しい。

 タスハはしかつめらしく同情的にうなずいた。

 

「ご近所のよしみです、困った時はご遠慮なく。今まではルームメイトさんが?」

「ええ……あ、でも、わたしも頑張ったんですよ! 最近は、小さいのなら平気になったんです!」

 

 このぐらいなら、と親指と人差し指で半インチもない隙間をつくる。タスハは失笑してしまい、ごまかそうとして口を滑らせた。

 

「あれは大きかったですからね。とはいえ毒のない種類ですから、安全ですよ」

 

 言ってから、しまった、と気付いたものの既に遅し。

 ジェハナの顔はひきつり、また両目が潤みだしていた。目撃した蜘蛛の姿が脳裏に再現され、恐怖も戻ってきてしまったのだろう。彼女は唇を震わせ、無理に笑みをつくった。

 

「で、でも、もう出ませんよね。ね」

「たぶん……ええ、大丈夫ですよ。寒い時季ですし」

 

 うんうん、とタスハも同意し、それでは、と撤退態勢になる。察したジェハナがはっしと袖を掴んだ。

 

「ま、待って下さい待って、あの、もう少し」

「いやしかし」

「帰らないで! またあれが出たらわたしもう部屋に入れません!」

 

 力いっぱいコートの袖を握られ、タスハは途方に暮れた。

 華奢な手はガタガタ震え、白く骨が浮き出ている。本人も恐怖を自制できないのだろう。涙声で「お願い一緒にいて」と訴えられたものだから、彼は顔から火を噴きそうになった。

 

「い、いけません! もう安全ですから、心細ければ誰かお友達を」

「そんな人いたらお呼びしません! じゃあ、わたしがそちらに行ってもいいですか!」

「落ち着いて! 教会の方が古くていろいろ出ますよ!?」

 

 玄関先でぎゃいぎゃい騒ぐ男女二人。このままでは通報されてしまう、とタスハは焦ってなんとか解決策を捻り出した。

 

「そうだ、このアパートメントの管理人は友人なんです、彼に連絡して奥さんに来ていただければ……」

 

 名案だ、とばかり言いさしたものの、途中ではたと我に返る。ジェハナも変な顔になって瞬きした。

 

 管理人の奥さんことシャスパは、以前からして「若い娘が一人暮らしだなんて破廉恥な」だとか古式ゆかしい倫理観でジェハナに厳しく当たっている人物である。そんな相手に、蜘蛛が怖いから一緒にいて、だとか頼もうものならどんな惨劇になるやら。

 

 曖昧な沈黙のうちに、ジェハナはうなだれ、命綱であった袖を離した。

「……わたし、強くなります……」

「それが良いですね」

 タスハも苦笑するしかなかった。

 

 気を取り直したジェハナが、気合を入れるようにぐっと握り拳をつくる。タスハはもう大丈夫だろうと微笑み、ほっと一安心した。袖を引っ張られて歪んだコートの襟を直し、帰りかけて、そうだ、と振り返る。

 

「ジェハナさん。後ろを向いて」

「後ろ?」

 

 怪訝に首を傾げたものの、彼女は素直にくるりと背を向ける。その肩甲骨の間に、タスハはそっと右掌を当てた。どきりと竦んだジェハナに、彼は笑みを含んだ声で「ちょっとしたおまじないです」と言う。そして、

 

「怖くない、怖くない」

 

 なだめるように、励ますように。優しく力強く、とん、とん、と軽く二回。

 その瞬間ジェハナは、本当に何か見えない力が司祭の手を通じて送り込まれたように感じた。胃の辺りがほんのり温かくなる。

 驚きに目をみはって振り返ると、少し照れたような笑みがあった。

 

「では、おやすみなさい。戸締りをお忘れなく」

「あ……はい。あの、司祭様も、暗いのでお気を付けて」

 

 やや放心したまま彼女が答える。タスハは礼を言い、寒そうに肩をすぼめて急ぎ足になった。その後ろ姿が暗闇に消える寸前、ジェハナは我に返って声を張り上げる。

 

「ありがとうございました!」

 

 返事代わりに、司祭はちょっと手を挙げた。魔法のような、奇蹟のような右手を。

 

 

(初出:2017/2/20)