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他人の痛みに無関心

 

 

恐らく誰も読まないだろうけれど。

 

 

 

 

昨年にフィギュアスケートの織田氏がモラハラ訴訟を起こしたが、その際の世間の反応はおおむね冷たかった。

 

記者の質問に露骨にあらわれていた「その程度のことで訴訟?」な心情。

ツイッターに溢れる「泣くな」の蔑視。

  

過去にモラハラパワハラを受けた人々は同情していたものの、他の大勢は素っ気なく見下していた。

 

「自分がたまたまそうではない」ことへの無関心な冷淡酷薄ぶりを目の当たりにして、ほりえび番外の『奈落の深さは何尋か』を書いたわけだけれど、これは何もこの件だけが原動力ではない。

 

 

トラウマ語りになってしまうのだが、私自身がそれを無惨なかたちで突きつけられた経験がある。

 

 

中学時代の私はいじめられていた。詳細は書かない。

そんな中、外部施設での林間学校的な行事があった。

班ごとにキャビンに宿泊し、食事やミーティング等は施設本館に集まるわけだが、ある日の食後、いったん解散してから●時までに本館に集合すること、という指示が出された。

 

そもそも、この指示がおかしいのだ。

モバイルの類はない時代、しかも貴重品は一括管理で集められて腕時計すらなく、キャビンに置時計もない、それでどうやって●時集合を果たせるというのか。

だが誰も異を唱えなかった。学校とはそういう場だから。

 

私達の班はキャビンでうっかり話し込んでしまい、慌てて出たものの、結果はギリギリ遅刻だったらしい。

本館には既にほとんどの生徒が集まっており、私達が運悪く最後になってしまった。

 

そうしたら、「最後になった班は皆の前に出て“ごめん”の尻字を書け」という罰ゲームが課されたのだ。

 

先に待っていた生徒と教師、施設職員で勝手に決めたらしい。

(どう考えても低劣ないじめだが、その認識もなかったようだ)

 

そんな話は聞いていない、不当だ、との怒りで一気に涙が溢れた。

まさか“こんな程度のこと”で泣かれるとは思っていなかったのだろう。

焦った施設職員は、私がいじめられっ子だなどと知る由もないため、さらなる悪手を打った。

 

 

可哀想だからやめてあげようって人、手を挙げて」

 

 

地獄の沈黙と言うしかない。

 

数少ない私の“友人”は皆、同じ班だから手を挙げられない。

あとはウザキモい奴が泣いても腹立たしいだけの生徒と、どうでもいい、自分は遅刻しなかったのだから最後になった奴の自業自得、という無関心な生徒ばかり。

しばらくしてようやく、駄目大人の失態をフォローする気配りを備えた生徒が一人だけ手を挙げて、どうにか場を取り繕った。

 

そうして結局、そもそもの指示のおかしさや、不在のまま合意なしに罰を決めて強制することの不当性は、まったく問題にされなかった。

 

人は冷淡で酷薄な生き物だと、その時、骨身に染みた。

好かれない人間には公正さなど与えられないし、数少ない味方は巻き添えをくうだけなのだと。

 

だから。

 

「可哀想か、可哀想でないか」をもとに判断してはいけないのだ。

基本的に人間は他人の痛みに鈍感で、自分がそうではないことに対しては酷薄な判断を下す。

そこにある不当不合理も、「可哀想でない」なら、問題として認識さえしない。

 

それはあの時、手を挙げなかった生徒に限らない。

もし私達の班が間に合って別の班が最後になっていたら、私もまた“そうではない側”にいただろう。

あの状況における問題をはっきり認識できたという確信は持てない。

 

 

人は他人の痛みを無視しながら生きている。

その鈍感さは生存に必須ではあるのだろう。

無視しなければ誰も正気でいられない程度には、この世は苦痛に満ち満ちているから。

(今こうしている間にも誰かがさまざまに虐げられ、殺されている)

 

ただそれでも、他人が泣いたり怒ったり、不満不当を訴えたなら、それに対して「可哀想か否か」「自分は違う」といったことを考えるのではなく、そこには何かの問題があって人を苦しめているのだと認識したいし、して欲しいと思う。

たとえ全く可哀想でなくても、自分にはまるで実感できなくても。

問題がないと思うのは他人を切り捨てているだけだ、と自戒しながら。