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私の嫌いな映画の話

※トリアー監督の『奇跡の海』ならびに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』についての私的見解です。

監督・作品のファンは回れ右推奨。

 

 

 

『ダンサー~』が胸糞映画なのはわりと有名だが、私も例に漏れず一回見て嫌いになった。

単にバッドエンドだからというのでなく、ただ主人公を愚かに描くがためだけに、司法や良識、社会正義をコケにしていると感じたからだ。

 

しかし監督の名前や他作品までは把握していなくて、後日たまたまテレビで放映されていた『奇跡の海』を先入観なしに視聴した。

こちらの作品は『ダンサー~』ほど有名ではなさそうなので簡単にあらすじを書いておく。

 

素朴な村に暮らす主人公は“神様の声が聞こえる”ため、導きに従って村の外の男と結婚し、愛し合う。

だが北海油田で働く夫は蜜月が終わったら単身赴任。寂しさのあまり「夫を早く帰らせて」と祈った彼女のもとに、事故で半身不随になった夫が帰される。

妻とのセックスができなくなったことに憤懣を募らせた男は、妻に他人とセックスし、その話を聞かせるよう命じる。それを通じて彼女を愛することができるから、と。

困惑し躊躇っていた主人公は、しかし徐々にそうした行動をエスカレートさせ売春婦として振る舞いだす。

夫の病状悪化・回復と自分の売春行為が偶然の連動を見せ、そこに神の意図を汲んだ彼女は自分がこうすれば夫は回復するのだと信じ、最後は暴力的な客のもとへ自ら出向いて死んでしまう。

最後の葬儀のシーンでは、松葉杖で立って参列する夫の姿。そしてどこからか鳴り響く鐘の音。

 

…と書けば、『ダンサー~』と並列で提示された読者はピンとくるかもしれない。

 

同じ構図なのだ。

 

“頭の弱い”(両方とも軽度知的障害があるような描き方である)純真で従属的な女が、男(夫・息子)への愛に縛られ、一途に自滅していく過程をセックス込みで描いたポルノ。

理知と良識を備えた女友達の忠告や手助けは拒絶される。

社会正義や善意は無力化されシナリオの外に追いやられている。

 

私はずっと後になって両作品が同一の監督であると知り、その監督は(別作品で)女性蔑視を理由に「反賞」を授与されていたり、『ダンサー~』主演女優に対するセクハラ疑惑があったり、という情報を得てからやっと、この両作品が“そういう作品”であると理解したのだけれど。

ただ、それを知る前から『奇跡の海』については、ずっと「この映画の“芯”は何だろう」とひっかかっていた。

 

そもそも『奇跡の海』はかなり露骨な性描写があるので、題材に信仰が含まれていなければ、私はすぐに視聴をやめただろう。

ご承知の通り私は神と人とのかかわりに関心を寄せているから、この作品についても強い印象を受け、神の声は本物なのか、奇蹟は安くないということなのか、などと考え巡らせていたのだが……どうも勘違いしている気がしていた。

 

「もしかして“馬鹿な女”を描いているだけじゃないのか」という肌感覚がうっすらあったのだと思う。

 

そう自覚してから振り返ると『ダンサー~』が不快だったのも、主人公をあくまでも頑なに愚かに描く姿勢に、侮蔑の匂いを嗅ぎとったからだと気付いた。

どうしようもない人間の愚かさ救われなさを真摯に見つめて描いたというより、上から目線で侮り軽んじ、その破滅をニヤニヤ面白がる――あれだ。かつて毎日この身に受けた“いじめっ子の加害欲”。

 

だから私はこの両作品が不快だし、嫌いだ。

 

むろん私は監督本人ではないから、真にその意図がどうであったのか断定はできない。

別の人間が見ればまったく別の解釈もするだろう。

作品として高い評価を受けていることは知っているし、そうした評価が存在することは(非常に不快ながら)納得もできる。

 

心底嫌いだし肯定もしないが、確かに記憶には焼き付いた。

きっとこれからもふと思い出して、何が・なぜ・どう不快なのか、それはどこまで正当な批判たりえるのか、考えてしまったりするだろう。

 

 

ちなみに、『奇跡の海』は私の創作物にもダイレクトに影響を与えている。

前述のあらすじの中にあったシチュエーション。お気づきだろうか。

 

金枝のアルハーシュ王とラファーリィ妃の複雑で微妙な夫婦関係。

あれは、偶然あの映画を見た経験がなければ、すんなり思い浮かびはしなかっただろうと確信している。

 

嫌いな作品も結局やはり、私という人間を構成する一部になるのだ。