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自殺報道に思うこと

 

自殺大国ニッポンではもう珍しくもなく、頻繁に自死の報道を目にする。

その伝え方についての話ではなく、個人的な思いと記憶の話である。

 

電車への飛び込みによる遅延運休のお知らせはしょっちゅうだし、最近は相次ぐ芸能人の自死に続き、つい昨日も梅田で飛び降りた高校生が通行人を巻き添えにして共に亡くなったとの報道があった。

巻き添えになった方については心から残念に思うが、ここではそれは置いておく。

 

 

思い出すのは、古い記憶だ。

私が中学高校といじめられていたことは先にも触れた

教室で首を吊ってやろうか、屋上から飛び降りようか、と考えることも日常だった。

幸か不幸か当時は友人らしき存在もおり(教師に命じられてのことだったと後で判明したが)、何より若さゆえの無知な自信で「自分は間違っていない」と思い込んでいたために死に損ねてしまったが、つくづくあの頃に決行していれば良かったのにと思う。

客観的に振り返ると生徒からも教師からも随分な目に遭わされたものだ。

 

やっと卒業してからも、まだ自分が“みんな”の中に入れるはずだと思っていた馬鹿な私は、同窓会に何回か出席した。

 

何回目の時だったか、同窓生のひとりが自殺したというしらせがあった。

私とはまったく接点のない生徒で、名前を聞いても顔が浮かばない人物だったが、そのしらせを皆の前で、いかにも沈痛な面持ちで厳粛に述べ、悼み、あれこれ噂や詮索はしないようにしようと呼びかけたのは、在学中に私をさんざん笑いものにし、侮辱し、自殺の数歩手前まで追い込んだ張本人だった。

 

何の冗談だ、と思った。

あれだけのことをした奴が、他人の死を悼むのか。へえ。

 

だけどおまえ、私が教室で首を吊っても絶対に悲しまなかったろう?

遺書におまえの名前を書いてやっても、悪者扱いされた自分のほうが被害者だと思っただけだろう?

キモい奴がさらにキモい迷惑行為をやらかした、と思うだけだろう。

 

そういう経験があるから、自殺の報道に対して(自殺なんかするな、だの、迷惑かけるな、だのと言う輩は論外として)さも自分は無関係ですという顔でお悔やみを言う人間のことも、あまり信用できないと思っている。

誰かを加害したことも、加害を無視して被害者を追い込んだ自覚も、被害に遭ったことも、すべてない、という立場を取る人間のことは。