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『いい話』の欺瞞

昔に比べて、様々なことを「面白い」と思えなくなってきた。

それは感受性が衰えたとか老けたとか、つまらない大人になった、という一面もあるだろうが、つくづく考えると昔が考えなしに何でも面白がり過ぎたのだと気付く。

フィクションにしろバラエティ等の娯楽にしろ、そこにある社会の差別構造や加害性に無頓着なまま「面白い事として提供される内容」を笑い(時には泣いたりしながら)楽しんでいただけだった。己の無知と鈍感さにぞっとする。

変な気持ち悪い奴として扱われ、さんざん嘲笑され虐められていたくせに、世間に溢れる「他人を踏んで得る快楽」にろくに気付きもしなかったのだから若さとは恐ろしい。

 

ウェブ上には、社会と人間の問題で様々に苦しむ声が溢れている。

ずっと声を上げて闘っている人、それを潰そうとする人、偏見と嘘に塗れた主張、切実な訴え……

そうしたあれこれを追っていると、かつてのように無頓着に何かを笑う事はできないし、同様に、「いい話」の欺瞞にも嫌悪を催すようになってしまった。

 

障害者や難病患者の人生を“感動ポルノ”として消費することへの批判がなされるようになって久しいが、それでもまだ油断するとすぐこの類が出現する。

虐げられている側が権利を求めて叫んでいるのに、それに対応すれば「この人達だけでなく皆にとって良い変化になる」だとかキラキラした話にまとめるのも、特定の属性に負わされた問題であるという意識を奪い、あなたも私も彼らを踏んでなんかいませんよという顔をする、卑怯なレトリックだ。

 

フィクションでもそう。

たとえば人種差別が苛烈だった時代における特定の個人間にあった関係を“心温まる交流”だの“感動的な絆”だのと持ち上げて、美しい物語に仕上げてしまう。

家族や学校や職場での苦痛や困難の中で、その人物に起きた“良いこと”だけに焦点を絞って、なんとなくいい感じにまとめてしまう。

構造や権利や倫理の問題を、個人の“情緒”にすり替えて、ただ気分よくなるためだけの“品物”にしてしまう。怒りや憎しみや醜さは視界に入らないよう追いやって。あたかも、被災地に千羽鶴を送ったり、コロナで疲弊する医療従事者に“感謝”して見せたりするだけで、自己満足に浸るかのように。

 

キラキラした話がつくられる背景には、人間や社会構造の問題が潜んでいるからこそ、泣ける話・いい話として成立するわけだが、消費する側はまるで「自分はそれになんの関わりもない」かのようにただ「美しい/切ない/泣ける/和む」と良い気分に浸って消費する。

そういう傲慢な鈍感さに、近頃はもう耐えられない。

 

言うまでもないが、すべてのフィクションで真正面から人権・社会問題に取り組むべきなどとは考えないし、ただ“いい話”を抽出して無害なキラキラにまとめた作品だって表現のひとつだとわかっている。

“いい話”の生産者・販売者・消費者のいずれをも非難するつもりはないし、需要があることも承知だ。現実がこんなザマだからこそ美しいフィクションを、という気持ちもわかるし、私自身そういう気分になる時もある。

現実の出来事をキラキラで塗り潰すのは不誠実だが、はなからフィクションならその限りではない。

ただそれを、良い気分になれる商品として売り込むこと、そして無頓着に消費することについて、私個人としてはどうしても「それはそれでいいじゃないの」と流してしまうことができなくなっただけ。

 

 

一度こういう視点を獲得してしまうと、否応なく現実の醜悪さを認識せざるを得ないし、自分自身も無関係な観客ではなく間接的な加害者であり、加害構造に乗っかって利益を得ている一人なのだと自覚してしまうから、正直とても生きるのがしんどい。

しんどい上に面白くないが、少なくとも、無自覚に鈍感にキラキラした言説を称揚して弱者を踏んだり、他人の苦しみを娯楽消費したりする傲慢を繰り返すよりはマシだと思う。