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表現することの責任

先頃、アイヌを題材にした某人気漫画が完結した。

私自身は途中まで読んでギブアップしたのだが、熱心なファンたちの反応をツイッターで目にして、つくづくこうした問題を創作の素材として利用するならいくら熟慮に熟慮を重ねても充分ということはないし、だからこそ、広く読まれメディア展開し後々も何かと引き合いに出されるだろう作品は、必ず批判とセットで記録に残されるべきだと思った。

 

文句を言っているのはファンではないアンチだ、との声もあったが、そんなことは全くない。むしろファンだからこそ深く読み込み批判すべきはせざるを得ない、という誠実さを感じる意見が多かった。

そんな中で、「話が面白ければ面白いほど、キャラが魅力的であればあるほど、その展開やキャラの行動が内包する価値観を無批判に受け入れてしまいやすい」だからこそ彼此はやめてほしかった、といった言葉があって、深くうなずいてしまった。

 

フィクションと現実を一緒にする奴はいない、と“表現の自由”を盾にする人々は口を揃えて言うが、それが虚しい嘘だというのは現実を見れば明らかだ。現実にある差別偏見はフィクションにも投影されるし、それによって再び現実の事象が強化される。フィクションと現実には相互作用がある。

「ワンピース読んで海賊を目指すやつはいない」というのはその通りかもしれないが、船乗りに憧れる読者はいるだろうし、好きなキャラの言動を真似る子供は確実にいる。その昔にはサッカー漫画の真似をしてオーバーヘッドキックに挑んで怪我をする子供が増えたこともあったそうだし。

 

むろん、ある作品が読者に強い影響を与えて何かの問題行動を取らせたとして、その責任すべてを作者が負うことなど現実的に不可能だ。どんな人間が作品をどう受け止めてどう反応するか、すべてを予測して予防するなんてことは出来るわけがない。

だが、だからといってそれは、表現の内容いっさいに無頓着に――差別偏見を助長したり誤情報を拡散したりするのも――自由におこなって良い、ということにはならない。

責任が取れないからこそ、表現者は自分が他人に何を見せようとしているのかを冷徹に自覚し、逃げずにそれと向き合わねばならない。それをせずに“表現の自由”を盾にして批判を難癖と断じ「嫌なら見るな」と開き直るのは、不誠実で鈍感傲慢の極みと言えよう。

 

フィクションの影響を自覚した、個人的な話をしよう。

 

私は子供時代から、海外翻訳物、わけても男性作家のものばかり好む傾向があった。

中でも、女性がほとんど登場しないものが好きだった。なぜなら彼女らが出て来ると途端に“女”の匂いが立ちこめるから。つまり、典型的な男性視点による女ジェンダーの描写が煩わしかったのだ。

“スタンダード”である男性・男児キャラばかりで話が進む間はジェンダーをたいして意識する必要もないのに、女が現れるとそれが崩れる。物語にノイズがまじる。

 

そんな理由で男性作家のものばかり読んでいたせいで、私の中には気付かぬ間に女性蔑視が刷り込まれていたし、男性のホモソーシャルな価値観(いわゆる『有害な男らしさ』の類)を当たり前とする認識まで育っていた。自覚できたのは三十代も半ばになってからだった。

私の昔の作品を読めば、そうした価値観を下敷きにした表現が散見される。

とりわけ『帝国復活』の頃は某男性作家の影響を強く受けており、「互いに遠慮なく雑言を吐き合いつつも信頼があるのが男の友情」的な関係を描いたり、(既に削除したが)娼館と娼婦を美しくロマンチックに表現した番外を書いたりした。

再生産すべきでない価値観を放流してしまったことに気付いた時にはもう遅い。

 

とりわけ「男の友人というのは互いにdisり合ってなんぼ」のような価値観は害悪でしかないが、いまだに根強い。カジュアルに人を侮辱し、悪気なくからかって“イジる”のが親しみの表現とされ、そうやって相手を気遣うことも尊重することもなく好き勝手にしておいて「俺たち親友だよな~?」とやるのはジャイアンの理屈でしかないというのに。

(※むろん互いに敵意や嫌悪がありそれゆえに嫌味や侮辱を投げ合う表現は当然だし、そんな関係の者が重要な場面で協力する展開は(現実にはありそうにないがゆえにこそ)熱い。問題なのは「本当は仲が良いことの演出」として相手を雑に扱う表現、信頼しているならこんな言われ方や扱われ方も受け入れるものだ、という意識を刷り込む描き方だ)

 

私自身、さんざんそうした“イジり・からかい”のつもりであろう侮辱嘲笑を浴びせられ続けて、人生も人格もとことん歪められた被害者である。にもかかわらず、刷り込まれた価値観のせいで(また幼少期から機能不全家庭&学校ではイジメ被害、のコンボでまともな他人との付き合い方を学べなかったため)自分自身が長い間、関わり合いになった“友人”たちに随分とひどい態度を取っていた。

思ったことを軽々しくそのまま言い、相手の欠点や失敗を平気で露骨に口にした。そのように「気を遣わない」でいられることが友情だと思っていたから。

そうやって加害したことは、もうどうやっても取り返しがつかない。中でも十代の頃に“親友”だと思っていた――つまり最も無遠慮に接していた――相手は、教師から問題児のお守り役を押し付けられて仕方なく友達していただけなので、大変な苦痛を与えてしまった。当然卒業後は疎遠になってそれっきりである。(あの教師は本当に余計なことをしてくれたものだ)

 

人間の脳が十分に成熟するのはようやく25歳ぐらいになってからだというが、実に、己の言動や認識をいくらかでも客観的に判断できるようになるのは大概やらかした後というのが残念でならない。そうなるまでは、外部から与えられる“表現”による影響が大きな力を持つ。

フィクション娯楽に限らず、広告、TVやその他媒体でメディアが流す映像や論調、それらによって醸成される世間の風潮、「これが当たり前」という刷り込み…

 

自分がやらかしたことはもう手遅れだが、せめてこの上まだ害悪を再生産するのは避けたい。また、そうした危うい表現に対して批判する人々を疎んじることなく、その声を重んじたい(賛成するか否かは案件ごとに違うだろうが)。

 

自分の中の偏見に気付いていなかった頃は、様々な事柄にいちいち文句を言う人々をただ面倒くさく思っていたが、今になって、そうした人々が世間やその時々の“常識”側の人間から疎まれ叩かれ捻じ伏せられながらもしぶとく戦ってくれたおかげで、本当にわずかずつではあれど差別や性犯罪的表現に対して、それは当たり前ではない、良くない、という認識が浸透しつつあるのだと理解できるようになった。

現状そのままに乗っかって安穏と過ごせるのは、敢えて世間や強者たちと喧嘩して揉めて波風を立てる人々が勝ち取ったものを、自分は何もしないで享受している特権なのだという自覚ぐらいは持って、そのうえで表現する側の一員として社会がより良い方へ向かうように、少なくとも悪い方に戻らないように、慎重でありたい。

 

 

本当は、私のごときたかだか数人に影響を及ぼすかどうかというミジンコでなく、桁違いの支持者をもつ成功した表現者こそが、弱者・被害者の存在を意識して己の影響力に慎重であって欲しいのだが、そういう大物の中に批判を難癖と断じたり疑念や不安の声を疎んじたりする例が少なくないのが残念である。(冒頭の漫画の作者のことではない、念のため)