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四月馬鹿2023

 うららかな春の朝、布団の中でまどろむのは最上の贅沢だ。ミオもやはりその幸せから逃れがたく、とろとろと夢見心地に漂っていた――が、不意に湿った丸いものが頬に押し当てられ、眠りが遠のいた。

 しかしまだ瞼はくっついたままだ。今のはなんだろう、起きなければ駄目だろうか、でももうちょっと……。

 うぅんと小さな声を漏らしただけで動かずにいると、今度は布団の上から肩の辺りを棒のようなもので突かれた。というか、掘られた。ほりほり、と二回。

「!?」

 驚きに目を開き、続けて息を飲む。至近距離に獣の鼻面があったのだ。

「えっ、え、あの、……???」

 ミオが混乱している間に、灰銀毛の狼が布団の上からどいて、枕元にちょんと座る。狼、である。狼の獣人、ではなく。ミオはがばりと起き上がり、まじまじそれを見つめた。

「まさか……す、スルギさん……?」

 そんな馬鹿な。いったい何の冗談だ。もしやまだ夢を見ているのか?

 自分の正気を疑いつつ呼びかけてみると、狼は小さくウフッと答えて小首を傾げた。

「ど、どうされたんですか、その姿はいったい……本物の狼になってしまうなんて」

 おろおろと手を伸ばして首の辺りに指を埋める。密生した毛の手触りも、心持ち顎をそらせて気持ちよさそうに目を細める顔つきも、確かにスルギ本人と同じだ。もっとも、普通の狼サイズになっているのでだいぶ小さくはあるが。

 ミオは呆然としつつ、しばし無意識に撫でたり掻いたり揉んだりしてから、ようやっと気を取り直して立ち上がった。

 とにかく、外の様子を確かめて、誰か事情を知っていそうな者に助けてもらおう。そう決めると、着替えて家を出た。

「……」

 こ れ は 駄 目 だ。

 里の景色を見渡して、ミオは思わずよろめいた。獣人の里は、今朝から急に動物天国になってしまったらしい。ぽかぽか暖かい陽射しの下、そこらじゅうで狼や虎、狐に豹に山猫などが寝そべったり散歩したりしている。

 野生化してしまったわけではない証拠に、牙を剥いて唸りながら場所を取り合っている様子などは見られない。ゆったりのんびり、花の匂いを嗅いだり、大欠伸して後ろ足で首を掻いたり、なんなら腹を天に向けてひっくり返ったまま寝息を立てているのもいる。平和だ。とはいえ、それらのふるまいは明らかに獣のものであり、外見こそ獣であれ紛れもなく“ヒト”だったジルヴァスツとはまったく違う。

「皆さんいったいどうされてしまったのでしょうか……」

 というか、自分はどうしたら良いのだろうか。

 途方に暮れて、家に引っ込んで寝直せば夢から醒めるだろうか、などと考えつつ振り返ると、こちらを見つめる琥珀色の双眸と目が合った。いつも仰ぎ見るばかりだったスルギの顔がずいぶん低い位置にあるもので、なんとも不可解な気分になる。それでも、たぶん彼はミオのよく知る青年医師のスルギであろうという信頼が、少し落ち着きを取り戻させてくれた。

「とりあえず、広場に行ってみましょうか」

 普段の口調で話しかけると、狼の目に了解の色が浮かぶ。言葉での返事はなかったが、それが良いと言うように、狼はすいと先に立って歩き出した。

 ほてほてと歩く道すがら、周囲を見渡す。昨日までの暮らしが夢だったわけではない証拠に、建物や畑は何も変わっていない。

 広場に近付くにつれ、鼻に馴染んだ匂いが漂ってきた。いつものように皆で集まって食事にしようとしているのだろうか、では誰かは元の姿のままでいるのだろうか。

 着いてみると、広場にいるのはやはり獣ばかりだった。ただ一人、大鍋から器によそって獣たちに食べさせている、見知らぬ人間を除いては。

「はいはい、そんなに急かさないで。ちゃんと冷ましてからね……さぁどうぞ」

 にこにこ機嫌良く、次から次へとやってくる獣のために食事をよそい、空いた器を回収してまたよそい……と繰り返しているのは、見たことのない若い女性だった。虎だろうが狼だろうが恐れもせず、先に食べ終わったらしい雪豹に頭を擦り付けられて嬉しそうな笑い声を立てている。

 ミオはゆっくり用心深く近付いていった。彼女がこの異変の原因なのではなかろうか。長い黒髪、見たことのない異国の服、それに――見据えられた瞬間、魂まで見透かされそうな紫の瞳。

 どきりと竦んで足を止めたミオに、彼女は屈託なく笑って「こんにちは」などと挨拶してくれた。それがあまりに当たり前の態度なもので、ミオは困惑しつつさらに歩み寄る。

「あの……あなたは?」

「通りすがりの旅の者です、怪しい者ではありませんからお気になさらず」

 突っ込みどころしかない。第一にこの里は人間が通りすがれるような場所ではないし、旅の者と言いつつまったく旅人らしい身なりではなく荷物もなく、怪しさ満点で気にしないわけにはいかない状況だ。

 だがそれらを問いただしてもまともな答えがあると思えず、ミオは目をしばたたきながら別のことを問うた。

「ここでいったい何をしているんです?」

「もふもふと戯れてます」

「……もふ、もふ……」

「今日は年に一度の、撫で放題の日なので!」

 すがすがしく良い笑顔で言い切って、謎の女性は傍らに寄り添っていた狼を抱き寄せた。もふっ、と深い毛並みに頬を埋めて、幸せ満面である。ミオはつい、自分の横にいるスルギを見下ろしてしまった。

「撫で放題……?」

「ウゥ?」

 狼も不思議そうに首を傾げたが、ミオが恐る恐るしゃがんで抱きついてみても、嫌がるそぶりは見せなかった。

「ふふ、仲良しさんですね。あなたも存分に撫でまくると良いでしょう! 皆も順番待ちしていることだし」

 謎の女性はやたら嬉しそうである。皆、って、とミオが周囲を見渡すと、いつの間にか食事を終えた獣たちに完全に取り囲まれていた。きらきらと、期待に輝くつぶらな瞳が一対二対三対……たくさん。

「えっ」

 これ全部撫でるんですか。私が。

 思わず怯んだミオの腕に、スルギがちょいと前足をかけて催促する。

「は、はい」

 わしわしわし、とひとまず首回りを撫でると、狼は気持ちよさそうに目を閉じ、ついでに包囲網もちょっと狭まってきた。謎の女性のほうはもうすっかり獣たちに密着され、手当たり次第に撫でまくっている。助けに行かなくても大丈夫なんだろうか、とそちらを見ていたミオの背中を、何やら見覚えのある金毛の狼が前足でほりほり掻いて催促した。

「あっ、は、はい。次はシムリさんですね」

 ひとまずスルギを離して、新しいお客さんに向き直る。待ちきれない様子の虎がミオの足下に身体を投げ出して、ごろごろスリスリし始めた。

「わわわ……ま、待ってください、順番です順番」

 おたおたしながらも、せっかくの機会なので、と撫でる手は抜かない。春の陽射しに暖められてふかふかの毛皮を堪能する。ごわごわも、すべすべ、くしゃくしゃも。どんな毛並みでも、その下にあるのは温かい命と、全身を預けてくれる信頼と混じりけのない愛情だ。

 春の陽気と、獣たちの暖かさが相まって、酒もないのに酔ったような心地になっていく。

 次第に朦朧としてきたミオの耳に、

「ずっと休みなく人間を守っているのだもの、一日ぐらいは重い責務から解放される日がなくてはね?」

 冗談めかした、けれど優しく思いやりに満ちた声が聞こえたのは、まぼろしだったのだろうか。

 

 ――いつしか霧にまかれるように眠ってしまったミオが次に目を覚ましたのは、常と変わらぬ寝床の中。起きて部屋を出てみれば、おはよう、と穏やかに迎えるのは青年医師の声。

 やはりあれは夢だったのだな、と思いつつ、彼女は名残惜しげに首回りのふかふかを見つめたのだった。

 

 

おしまい。