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金枝が映像になればなぁという話

 

 

 自作を映像で見られたらな、という想像はよくある事だが、金枝については単に「かっこいいだろうなぁ素敵だろうなぁ」というだけではない思いがある。

 

 もちろん、金枝が映像になれば、と夢想する理由は一番にやはり、鮮やかな視覚イメージを喚起する作品だから、目に見えるかたちにする“甲斐がある”から。文字だからこそ読者に無限のイメージを抱かせる力がある、という点は確かにそうだが、映像と音が組み合わされば、それはそれで素晴らしいだろうし、何より、文字から“画”を想像するのが得意でない人にも伝えられるのが大きい。

 

 そういう「美しい映像をつくれる」という理由とは別に、作者として考えざるを得ないことがある。

 「シェイダールもヴィルメもまだ十代の子供だ」という事実を常に目の前に見せ続けられたら、きっと印象がだいぶ変わるだろう――ということだ。

 

 これから書くことは、読者の感想を「それは間違いである」と正すものではないことを断っておく。批評批判ならば「いやそれはこう書いてあるでしょう、ちゃんと読んでください」と反論もするが、感想は読者それぞれのものであって、正解も誤解もない。……まぁ、あまりに勘違いがすごくて「何をどう読んだらそんな感想になるんだ」というものも無くはないのでそういうのは困るけれども……

 ともかく、これから書くのは「そのように読まれた」という事実の話であって、「こういう感想は嫌だ」という意図ではないとあらかじめご了承願う。

 

 だいぶ前になるが、恐らく既婚女性だろう読者がシェイダールを「カリスマ0(ゼロ)の暴走教祖」と評したのを目にして、結構なショックを受けた。今なおこうして鬱々考え込むぐらいにはショックだった。

 その人はヴィルメに肩入れする読み方をしていて、シェイダールに対しては随分手厳しかったのだが、それにしてもここまで言われるのか、と。

 他の候補者たちや王や官僚から寄せられる信頼と期待も、目的のために大嫌いな神官たち(ジョルハイや鍵の祭司)にも我慢して協力したことや、王に諭されて祭司長に頭を下げたことも。全部、無かったことにされてしまうのか。

 

 そもそも金枝はああいう内容だし、シェイダールが登場早々と既婚子持ちになってしまうせいもあって、女性(妻)に偏った視点で読むと彼は「クズ男、ダメ夫」の烙印を押されがちなのだが、そう断じる読者に対しては「あなたの高校生の息子(がいると仮定して)に対してもそうなのか」と問うてみたくなる。

 あなたの高校生の息子が、彼女との関係で失敗してこじらせたり。部活仲間と意気投合して顧問やOBに応援されたからと無謀なビッグチャレンジを企てたりしたとして。それに対して、こんなにも辛辣に罵り嘲るのですか、と。

 

 そう、シェイダール(とヴィルメ)は本編中では16~18歳。高校生の年齢だ。

 しかも現代と違ってろくな教育も受けず情報も限られ、文化資本もさっぱり無い、古くさい因襲に支配された土地で育った子供たち。

 

 シェイダールと王妃の逢瀬にしても、美しく描写しているけれど、あの場面を実写映像で考えてみてほしい。

 相当な地位権力があり知識も経験も豊富な大人の女が、田舎から出てきたばかりで無知な十六歳の少年をベッドに誘い込む。少しぞっとしないだろうか。ご褒美だとか役得だとしか思えないとしたら、いささか鈍感と言わざるを得ない。

 シェイダールが男であの性格だから、まるで彼が自分の意志で主体的に浮気をしたかのように受け取る読者が多いし、シェイ自身も自分が“被害者”だなんて認めないだろうけれど、第三者の大人の視点で見れば明らかに、グルーミングからの性加害なのだ。(アルハーシュ王はその辺を解っているから、小童に妃を寝取られた、とは反応しなかったわけで)

 

 

 ……というようなことを、十代少年少女の外観があれば(ここまで明確にではなくとも)いくらか伝えられるのではないかと想像する。

 

 ヴィルメに対する悪口は、いろいろ遠慮があるのか直接私の目に触れるところには出てきにくいが、恐らくヘイトを溜めた読者はそれなりにいるだろうし、こちらもやはり彼女が実際まだ子供なのだという認識が強まれば、また印象が変わるだろう。

 

 金枝が映像になればなぁ、という私の想像には、そんな思いが込められている。

 文字書きなら文章で伝えろよ、と言われそうだが、作中で折に触れて彼らの「若さ」を描いてはいても、常に目に入る容貌というものの力はまったく別物だから。