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家族という地獄(ドラマ『ダハード』感想)

 

 

『ダハード』はいまだカースト差別女性差別が根強い現代インドの地方都市を舞台に、女性刑事が連続殺人事件を追うサスペンスドラマ。若い女性が公衆トイレの個室で鍵をかけ、中で青酸を服用しての自殺、と思われた一件を調べる内に類似の変死が過去から続いていることがわかって……というパターン。視聴者には早い段階で犯人が明かされるし、殺人の手法も高度にトリッキーではないので、謎解きに頭を悩ますことなく犯人と警察との出し抜き合い・追跡劇を楽しめる。インド特有の事情が絡んでいるところが見所。

 

 若い娘に対する「結婚しろ」圧の強烈さ、でありながら相手選びにはカーストが障害となり、多額の持参金が必要になる慣習。それで娘が駆け落ちして行方不明になっても、家の恥とて捜索願も出さない親たち、諸々。

 警察内部の賄賂や圧力などの描写もあるけれど、これはまぁどこでもあるかも。

 

 ヒロインがとにかく強くて、母親からの結婚要求圧をものともせず、同僚の嫌がらせを跳ね返し、最後の最後まで折れない。プライベートで恋人と会うシーンは一応あるが(伏線の都合という感じで)あっさりしたもので、自立した女性主人公を見たい人にはうってつけ。

 

 クライムサスペンスとしても充分面白いけれど、そのシナリオを支える現地の文化慣習、家族という地獄の描き方が印象深い作品だった。

 

 

(以下ネタバレあり)

 

 

 最大の“地獄”はもちろん、「結婚しろ」圧と持参金、親世代が娘を慣習に従わせることを至上とするところ。ゆえにこそ本作の連続殺人が成立し得る(とにかく早く結婚しなければと焦る女性たちが犯人男の甘言にあっさり騙される)わけで。ヒロインが見合い話を押しつけてくる母親に対して被害者たちの写真を並べて見せ、「この人たちみんな、そうやって結婚しろ結婚しろと言われ続けたせいで死んだ」と断罪するシーンまである。

 

 だからヒロインが仕事に打ち込み、また上司である堅物署長が自分の娘にも自立を促すのは、時代のポジティブな変化ではある。しかし、このドラマの深いところは「これからは女も自立する時代だ! 素晴らしい!」のような一方的な描き方をしていないところ。そういう“進んだ”人々によって断罪される“遅れた”女たちの悲哀の物語でもあると感じられた。

 

 象徴的なのが、署長の夫婦・家族関係の変化。

 最初はそれなりに平和に仲良くやっていた夫婦が、連続殺人の捜査が始まって署長が仕事漬けになるにつれ軋み壊れていく。妻は夫がちっとも家に帰ってこないと詰り、仕事仕事と言いつつあの女刑事と浮気してるんでしょと決めつける。娘が学校の弁論大会に選ばれデリーに行くのに親の同意が必要になった時、妻は猛反対する――娘を都会にやったら身を持ち崩すだけだというように。なんのためにデリーなんか行くの、と言う妻に、署長は「君のような遅れた人間にしないためだ!」と侮辱を叩きつける。妻は「遅れてたって(あなたが浮気してるのは)わかるわよ」と泣き崩れる……。

 

 昔の私であれば、将来を阻まれる子の立場で、あるいは「外で社会的意義のある仕事をしている人間が一番えらい」というお仕事至上主義に染まった視点でしか見られなくて、この妻のことは愚かで疎ましく思っただろう。ハードな仕事で疲れ切っているのに、家では無理解な妻にねちねち責められるとなったら、そりゃ後半で(実際に不倫する場面は無いとはいえ)ヒロインに心を移してしまうのも無理ないわ、とさえ。

 けれど今は見えるものが違う。

 妻を“遅れた人間”と蔑んだ署長だが、妻にすべての家事育児という“遅れた”役割を押しつけているからこそ仕事に打ち込んでいられる、その自覚がない。子供がトラブルを起こした時だけ学校に出向いて保護者の責任を果たすというのも、一見『良い父親』のように思われるけれど、つまり母親は『保護者』ではなく子供の婢女でしかないということだ。

 そうやって妻の労力を搾取し続けたうえ、さらに尊厳まで貶めたのだから、残酷の一言に尽きる。

 子供時代から隷従を刷り込まれ、親や祖父母に従わされ搾取され、夫に奉仕し、果ては子供から見下される。“遅れた女”たちの救われなさが痛ましい。

 

 こうした構図は私も『夜明けの歌、日没の祈り』でジェハナとシャスパ、マリシェの関係を通じて描いた。ジェハナに感化された若い新世代のマリシェはシャスパを露骨に軽蔑しているけれども、こうした“進んだ”人々の傲慢は現実にもいたるところ見受けられる。

 男性が女性を軽んじるのは(残念ながらいまだに)ありふれているが、それだけでなく、社会の上層にいて知的エリートに属する女性たち――医者や弁護士、アカデミアの先生方や議員など――が、一般女性の主張を軽んじる時、その態度は男性とはまた異なる冷淡さを発揮する。あのやかましい彼女らは同じ性別であっても自分たちとは違う、我々のようになる努力もせず、女性であることを盾にして甘えている、怠惰で時代遅れの愚かでわがままな“女”でしかない。だから諭し、わからせてやらねばならない、少し懲らしめてやってもよい、こういう“女”たちが女性の地位を下げているのだ――のような。

 

 むろん、だからとて“進んだ”人々ではなく“遅れた”側を支持して差別構造を維持すべき、という話ではない。ただ、公正な社会を目指して進んでいく過程の中でも、やはり踏みつけられる人はいるのだということを、このドラマ『ダハード』はきちんと描いていると思えた。

 

 

 なお、「女の話ばっかりかよ」と思われる向きのために(?)男側の地獄も盛り込まれている。犯人男の生い立ちがそれだ。

 長男に産まれた犯人だが、父親は暴力的で加害癖があり、妻を殴って階段から突き落として死なせている。犯人は子供の頃にそれを目撃したのだが、ただの事故だと言うように父親から脅され、ずっとそれを心にしまい込んで育ってきた。

 そして父親は、その出来事の影響なのか元々自分に似た性質なのか鬱屈しがちな長男を嫌い、いつまでも薄給の雇われ教師にすぎないこと、妻のほうが大きなホテルで役職に就いて稼ぎがあることをネチネチと蔑み責める。

 一方で弟はその頃まだ幼く、長男が見聞きしたことを知らないまま天真爛漫に育ち、ゆえに父親からは贔屓され溺愛されている。家業の金細工店も弟が受け継いだ。父が兄に冷淡で、兄があまり人生で成功していない理由を、弟は終盤まで知ることがない。

 

 きょうだい差別はあまりにもありふれた家庭内の地獄のひとつだが、男兄弟の場合は「成功しろ、人に使われる側でなく人を使う側になれ、親に金で報いろ」という圧力が加わる様子が描かれている。

 

 家族であることには、実際的な生活の利便、助け合い支え合うという良い面がある。それは確かだが、そうして生活を共にし逃れがたい“絆”に結ばれているがゆえに、容易に地獄を生み出すことも事実なのだ、と突きつけてくる作品と言えるだろう。

 

 なお、最初に殺人事件とは関係の無い別の駆け落ち事件が起きて、それが終盤まで地味に引っ張られるのだが、最後にはその駆け落ちカップルが司法の力に助けられ、慣習や家族の桎梏を断ち切って自由と権利を得る展開が用意されており、開かれた道を明るく示してくれるところが好印象だった。